「主体=主観(性)」と「客体=客観(性)」という大きな誤解

初めに、主体(=中心)は客体(=対象)に働きかけて、客体は主体に働きかけられます。

ここで誤解されやすいのは「主体=主観(性)」「客体=客観(性)」という関係(式)です。

ここから、その誤解を解いていきます。

ここで改めて、「主観(性)」とは、一方が他方(≒モノ自体)から何らかの刺激や感覚を受け取ること。あるいは一方の受け取る刺激や感覚そのものといえます。これは単一の事実関係であり、これは単方向です。

上に対する「客観(性)」とは、相互の関係(性)、たとえば「見る側」と「見られる側」の複数の事実関係であり、これは双方向です。

したがって、客観(性)とは主観(性)の「スーパーセット」であり、これを逆にいえば、主観(性)とは客観(性)の「サブセット」であるということができます。

翻って、客観(性)こそが主観(性)に対して優位にあることがお分かりになると思います。

※ちなみに、客観(性)を別の言い方でいえば、「集団内における認知の合意」、あるいは「共通認識」ともいえる。

この考え方は、釈迦の唱えた「空」の思想にも通じます。

※「空」とは、相互に関係し合う存在達が、この世界や宇宙を成り立たせており、何が欠けても、全体として成り立たない状態や状況を指す。

さらに続けると、主体が「能動的な存在」であり、客体が「受動的な存在」であるがゆえに、前者が優位にあり、後者が劣位にあるのは自明です。しかし「主体が主観(性)」と「客体が客観(性)」と同一視されているのは大きな誤解です。

あくまでも、主体と客体とは、前者が後者に働きかける(=一定の作用を及ぼす)ことと、後者が前者から働きかけられる(=一定の作用を及ぼされる)ということであり、直接には、主観(性)と客観(性)の観念とは結び付かない訳です。

むしろ、「見る&見られるの関係(性)」についていえば、事の始めに、見られる側が常に外部に対して光を発して(あるいは反射させて)、見る側の視覚に影響を及ぼしているのですから、本来であれば、見られる側が主体であり、見る側が客体とならなければいけないのです。

※例として、演劇やコンサートなどでは、見せる側(≒見られる側)が「主(=ホスト役)」を務めており、見せられる側(≒見る側)が「客(=ゲスト役)」を務めている。

終わりに、まとめると、「客観(性)=優位」「主観(性)=劣位」であり、加えて、「主体=優位」「客体=劣位」となります。

※多分にこの誤解は、「主」と「客」という漢字の入り乱れた使用が招いているといえる。

※今後は、「客観(性)」→「集団(的)認知」、「主観(性)」→「個我(的)認知」とでもするべきでは?。