ケチ&難癖をつけたがる人の心理(批判・意見する人とどう違うのか)

初めに、世の中の何処にでも、他人の考えや行動にケチや難癖をつけたがる人はいます。

今回は、そんな人の心理について解説していきます。

ここで、何かとケチや難癖をつける人の多くは、相手の考えや行動を正当に批判しているようでいて、実は、その考えの主や行動者の存在自体を不愉快に感じており、その相手の人格を攻撃し、その存在の価値を低めてしまうおうと(密かに)企てているのです。

結果、相手の価値(≒周囲からの評価)や、あわよくば、自信や自尊心までをも低めることができたらシメたものです。

※これは、競争相手や自分の存在価値を脅かす相手を(実質的に)排除したことになるからである。

つまりは、「ケチ&難癖をつける」とはそういうことであり、この相手と全く同じ考えや行動の人がいても、(自分と同じ)内輪の人間・味方であれば、「是」としてしまうのです。

ここに、ケチ&難癖をつける人の厄介な心理が隠れています。

もっといえば、ケチ&難癖をつける人というのは、自分にとって誰が味方であって、誰が敵なのかについての極めて鋭い洞察(≒一種の嗅覚)を持っている人間であり、(本来的・本質的に)仲間意識が強いといえます。

したがって、こういった人間は、それがどんなに過激であっても、不正義に満ちていても、味方の考えや行動を(ほぼ自動的に)「是」として許容してしまう。対する敵の考えや行動を、それがどんなに穏健であっても、倫理や社会道徳に適っていたとしても(ほぼ自動的に)「非」として拒絶してしまうのです。

このことから、「ケチ&難癖をつける(つかたがる)人」というのは、自分の実力・能力や価値が低いと無意識に自認しており、その相手とのギャップを手っ取り早く(それもラクに)解消しようとする心理に駆られている(実に)哀れな人間ということができます。

ここで、こういった人間とは反対に「意見する(できる)人」というのは、(単純に)相手の考えや行動に要改善点を認め、これを指摘してあげられる人間だということができます。

終わりに、前者が「ネガティヴ」であり「非生産的・非建設的」であるのに対して、後者が「ポジティヴ」であり「生産的・建設的」であるのはお分かりいただけるかと思います。

※また、こういった人間はその芯が(非常に)幼稚であり、(本性的な)悪辣さや狡猾さがそれに相まって、「なんとも度し難い存在」でもある。

エゴとコンプレックスの深い関係(あなたは「拗らせタイプ」?)

初めに、エゴとは、「自我」または「自尊心」と訳されます。

現代では、どちらかというと後者の意味で用いられることが多いと思います。

エゴとは自己を確立する上で、なくてはならないものですが、これは必然的に他者との衝突を引き起こします。

なぜならば、多くの人にとって、自分よりも容姿や才能において、自分よりも優れている他者の存在があり、常にそれが自己の存在にとって脅威となるからです。

つまりは、エゴの強い人間ほど、周囲から一目置かれたい、注目されたい、人気者でいたいという欲求を持つ訳です。

そこで、自分よりも容姿や才能の優れた他人の存在に嫉妬心をくすぐられて、他人の足を引っ張ったり、邪魔したり、あわよくば今いる高みから下に引きずりおろしてやろうという発想に至る訳です。

つまりは、エゴの強さとコンプレックスの強さは比例するということです。

この問題は、エゴの強さと(現実における)自己の存在のレヴェルとのギャップによって引き起こされます。

エゴが強く、かつ、容姿や才能の面で他者に圧倒的な溝を空けられているほど、そのギャップは大きく、それがコンプレックスになりやすいのです。

ちなみに、コンプレックスの出方は2通りあります。

一つは「嫉妬」であり、もう一つは「羨望」ですが、どちらも根源は一つです。

さらに、世の中一般では、前者は「後ろ向きな感情」であり、後者は「前向きな感情」と受け取られます。

まとめると、世の中では、(圧倒的・絶対的な)自己を確立する(=大勢の他者との競争に勝ち抜くことが)できる人間は一握りであり、一生涯をかけても自己を確立できない人間は必ず出てきます。

※これは、(そもそも)世の中が不公平であるという証左である。

では、自己を確立することのできない人間はどうすれば良いのかというと、それは、その目的自体を捨てる、即ち、自己の確立することを「諦める」ことに尽きると思います。

いつの時代であろうとも、社会状況がどうあろうとも、人には「分相応」というものがあると思うのです。

終わりに、結局、人は、天から与えられた初めの手札をつかって、人生をやりきる、乗り切ることしかないというのが、答えではないでしょうか?、

集合における優劣の発生とその過程(あなたは「超人」?、それとも「神」?)

初めに、太古、人が人になる以前は「獣」でした。

ここで、獣と人を決定的に分けるのは、「二足歩行」とか「道具の使用」とか言われていますが、それらは飽くまでも「要因」と「(表層的な)結果」に過ぎません。

つまりは、獣と人を決定的に分けているのは「知能の発達」でしょう。

そして、知能の発達こそが「文明の誕生」や「文明の発展」を齎しました、

ここで、人は初めから人であった訳ではなく、やはり、ダーウィンの進化論(=ダーウィズム)に基づけば、人は初めに獣であった訳で、獣(=サル)の集団の中から突出して知能を発達させ、そこから「猿人」→「原人」という過程・プロセスを経て、「(現代の)人」になった訳です。

つまりは、知能の面において、人と獣の間には「優位と劣位の関係(性)」があって、初期の獣の存在がその知能を発達させて、他の獣類と「差(=レヴェル,level)」を付けていくうちに、その差が「違い(=ランク,rank)」となり、結果、優位と劣位の関係(性)が生じたという訳です。

さらにいえば、同じ人の集団の中でも、その差や違いはあるもので、同じ人同士でもIQ(=知能指数)が異なると、もはやまともな会話やコミュニケーションもままならないとされています。

中には、極めて特異で優れた能力を持っていて、世の中を変えてしまう者達も居ます。

それらの存在は、世の中では一般に「神」や「仏」などとされています。

それは、「釈迦如来(=仏教の開祖)」であったり、「菅原道真(=学問の神)」であったりする訳です。

したがって、知力や知能の発達具合によって、「獣」→「人」→「超人」→「神&仏」という図式が成り立つのです。

ここで、上の図式について説明すると、「獣」と「人」の間に優劣があって、同様に「人」と「超人」の間にも優劣があって、「超人」と「神&仏」の間にも優劣があるのです。

これを別の図式に置き換えると、「獣|人」(=自然的存在)、「超人|神&仏」(=超自然的存在)となり、大きく二つのグループに分けられ、それぞれの集合の中で優劣があるというものになります。

さらに、前者の「自然的存在」と、後者の「超自然的存在」の間にも優劣があることが分かります。

※さらにいえば、上に挙げた二つの集合の中の二つの要素は二項対立しているし、同時に、これら二つの集合同士も二項対立している。

※これは「ヘーゲル弁証法」に通じる。

ここで、巷では良く、有名人や芸能人を見ると、「あの人と自分たちは (存在の)次元が違う」という言葉や表現を耳にしたりしますが、まさにそういう事です。

つまりは、「差(=レヴェル,level)」の積み重ねこそが「違い(=ランク,rank)」となるということです。

※さらにいえば、違いの積み重ねが「隔たり(=ディメンジョン,dimension)」となる。

※ちなみに、「c」などのプログラミング言語における多次元配列は、コンピューターのメモリィ上では1次元の存在であり、ある(任意個の)要素の並び「配列A」を並べた「配列B」があり、さらに、配列Bを並べた「配列C」という具合に配列の次元が上がっていく。

※この考えは「六道」という釈迦如来の説いた考えに通じる。

終わりに、今回は、「集合における優劣(=ある種の二項対立)」と、「(それら要素間の)差や違い(さらには隔たり)」について解説しました。

トートロジーの本質&正体(「私は私?」「ペンはペン?」)

初めに、よく巷では「私は私」とか「ペンはペン」といった表現が見受けられますが、これは論理学の世界では「トートロジー(=同語反復)」とされています。

今回は、このトートロジーの意味するところについて解説していきたいと思います。

一見すると「私は私」とは、全くもって意味を成さない「ナンセンス」な文章表現のように思えてきます。

しかし、ここで、原文を意訳&補填すると、1.「私は私であって 他の何者でもない」ということになり、トートロジーとは詰まるところ、存在の「一意性&唯一性」を強調したものなのです。

さらに、意訳文の「~ 他の何者でもない」といっている通り、自己とは異なる他者の存在の否定として自己を規定&定義しているということになります。

※これは、集合論における「補集合」の概念である。

つまり、この文では、(遠回し&間接的に、)他者の存在を否定することで、自己を認識できるということを意味しているのです。

したがって、1の意訳文をさらに意訳することができます。

それは、2.「私は私であって 他の何者でもない  他の何者でもない者こそが 私である」となります。

この文は一見するとややこしいですが、一つの真理です。

※「ありとあらゆる他者の存在を否定することで 自己が見いだせる」ということである。

もっとも、この場合「どこからどこまでが 他者なのか」という命題のようなものが付きまといますが・・・。

これは例えば、生活の信条とか、道徳観とか、さらにいえば、信念のようなものであったり、生理的な好悪であったりするので、なんともその境界線は曖昧なものなので一概には言えませんが・・・。

しかし、興味深いのは、ありとあらゆる他者の存在を知悉していなければ、本来の自己の存在を見出すことはできないということであり、(同時に、)他者の存在なしには、自己の存在を規定・定義することもできないということです。

終わりに、トートロジーとは、自己の存在の一意性&唯一性の強調であり、自己の存在を規定&定義するための語法でした。

二項対立の成立・形成過程(医者と患者の関係性)

初めに、ここから「作用&反作用(≒原因&結果)の法則」と「主体&客体の関係(性)」について解説します。

医療の例でいえば、医者と患者はお互いに対極の関係にあります。

当然ですが、医者は患者を治療しますし、患者は医者に治療されます。

この場合、医者(a)が主体であり、患者(b)が客体です。医者は患者に治療を施します。患者はその対価としてお金を払います。

※(a)は(b)に一定の働きかけをする(=作用を及ぼす)。かつ、(b)は(a)に働き返す(=反作用を及ぼす)。

※しかし、事の始めに、患者は医者に治療を依頼しているため、本来は、患者(の立場)こそが主体であり、依頼される医者は客体であるはず。

※つまりは、患者は医者に依頼をする。対する医者は患者の依頼に応える。これが本来の順序である。

ここで「医療」とは、医者と患者の互いに立場の異なる二者が同時にいてこそ成り立ちます。

加えて「作用&反作用」の働く局面では、互いに立場の異なる二者は「主体&客体の関係(性)」になります。

※「作用&反作用の働く局面」⇔「主体と客体の関係(性)が成り立つ局面」。

※さらに、患者が医者の存在を求めるのが「真の関係」となり、医者が(金欲しさに)患者の存在を求めるのが「偽の関係」となる。

※しかし、現実には、医者は患者を薬漬けにしたり、食い物にしている。

※医者にとっては患者は病気のままでいてもらったほうが好都合である。そのために患者の健康状態を「寛解」のままにしておく。

※「寛解」という観念は精神障害などについて観られる。つまるところ「障害」とは治らない(とされる)症状であり、精神障害者とは医者にとっては「半永久的にカモれる相手・存在」である。

※したがって「治らない(とされる)症状(=障害)」のために薬を処方して医療点数を稼ぐ行為は、本来不当であり、その行為自体「ナンセンス」である。

ここで、事の始めに、医者(a)と患者(b)の存在は元々が互いに「人間」という存在(者)であり、医者と患者はそれぞれの対極的な立場に分かれる以前には、互いに人間という存在だった訳です。

すなわち、原初に(a)と(b)は「人間」という集合を形成していました。しかし、その集合の内で病気を持つ者が現れ始めました。その存在(者)こそが「病人」(b)と認識されるようになったのです。

そして次第に、人間達(=元の集合全体)は病人を治療する必要に迫られるようになり、集団(=集団)内から医療を志す者(a)が現れ始めます。

これにより、病人は医療を志す者に治療されるようになります。(a)は(b)に治療を施します。そこで始めて、(b)は「患者」となり、かつ、(a)は「医者」となります。

すなわち、この事が、医療における「医者」(a)と「患者」(b)の関係(性)の構築なのです。これが集合(=集団)内における「二項対立」の成立・形成です。

終わりに、まとめると、集合(=集団)内における二項対立の成立・形成とは、「作用&反作用(≒原因&結果)の法則」と「主体&客体の関係(性)」があること。すなわち、その集合(=集団)内において、必要から立場・役割の違いが起こることです。

この宇宙はほんとうに収縮するのか?(「焼成後に冷えたパン」が自然に潰れてアツアツに戻るのか?)

初めに、この宇宙が風船のような膨らみ方をしているとすると、全宇宙の天体やあらゆる物体の体積までもが膨張することになってしまいます。

ここで、物体・天体の体積までもが膨張してしまうと、膨張の現象それ自体、(その宇宙の中の)いかなる観測者にとっても確認できないことになってしまうので、これは「ナンセンス」です。

したがって、あらゆる物体の体積は(ほぼ)そのままに空間のみが膨張していないといけないのです。

とすれば、全宇宙の体積が増大しているということとなります。

さらに、全宇宙の体積が増大しているということは、この宇宙の外縁部が宇宙の外側に向かって引っ張られている恰好で膨張していることになり、なおかつ、宇宙のあらゆる場所から「新たな空間」が生まれていることとなります。

これは、窯に入って焼かれている「パン」のようなものです。パンに含まれるクルミやレーズンなどの具材(=あらゆる物体や天体に相当)の体積は(ほぼ)そのままにパン全体の体積が増大していき、さらに、具材同士の間隔が広くなっていく現象にかなり近いと思います。

ここで、「重力レンズ効果」や「光のドップラー効果」という現象からも、光は宇宙空間にベッタリと張り付いた存在だということがわかります。

したがって、宇宙の膨張が緩やかになってくると、宇宙の端に向かう光は先頭部分が潰れた形(=波長が短くなって、周波数が高くなる)になります。

さらに、もしも、宇宙の膨張が止まると、宇宙の端に向かう光全体が潰れた形になり、その光の先頭部分の(固有)時間が静止します。

そして、宇宙がいよいよ収縮し始めると、その光はドップラー効果によってより波長が短くなっていき(=より周波数が高くなっていき)、その光の軌跡が短くなっていきます。ついには、時間的に逆行する動きを見せて、光源に戻っていきます。

ここで、「エネルギー(=エナジー)保存則」を思い出してください。光の運動量(≒エネルギー)は一定に保たれるはずなのに、宇宙が収縮を始めると、その端に向かう光の運動量は小さくなっていき、最後にはゼロになります。

したがって、もしも、この宇宙が膨張から収縮に転じるとしたらば、エネルギー保存則を無視することになってしまいますので、宇宙の収縮とは、すなわち「物理法則の破綻」を意味してしまいます。

しかも、「エントロピー増大の法則」から観ても、一度焼き上がってから「冷えたパン」が自然に潰れて熱くなる現象を説明できません。

※一度、この宇宙全体に薄く広がった物質や熱量が一か所に集まりだす現象は熱力学的にはまずありえない。

終わりに、以上のことから、この宇宙が収縮する可能性は低いと筆者は観るわけです。

意識の正体(その仕組みと働き)

初めに、人間の意識には大きく分けて5つの機能があります。次にそれを説明します。

①感覚を司る「感覚系システム」。②記憶を司る「記憶系システム」。③感情を司る「感情系システム」。④思考を司る「思考系システム」。⑤身体を司る「身体系システム」。

これらのシステムの働きは概ね次の順番となっています。「①→②→③→④→⑤」。

これは意識の中を巡る情報の流れと一致します。

ここで、感覚系システムを通じて得られる情報(≒刺激)は、直ちに記憶系システムへと引き継がれて、数ある記憶の中で過去に処理した(=経験した)情報がないかどうか照合します。

記憶の中に該当する情報があれば、それを引き出して、次の感情系システムへと引き継ぎます。感情系システムは記憶にあった情報と照らし合わせて、意識上に記憶とすり合わせた感情を生起させます。

※「言いようのない」とか「言葉にできない」などという表現があるように、今までの記憶の蓄積にない情報については、明確・明瞭な感情が生起されない。

※人は真に、未経験・未体験な物事に遭遇すると、自ずと言葉を失うものであるが、それはこのモデルによって説明される。

生起する感情は思考系システムに引き継がれて、これを材料にして状況等に対する判断を下します。

最後に、身体系システムが直前の思考系システムによる判断に応じて身体的な反応や活動を決定します。

あくまでも、このモデルは旧来からある「刺激・反応説」に基づくため、モデルの動き・活動としては、状況や環境に対して受動的です。

※これ以降、このモデルを「受動モデル」と呼ぶこととする。

しかし、上のモデルに対して、状況や環境に対して能動的なモデルもあります。

それは、反芻(=フィードバック)を司る「反芻系システム」を中心にしたものです。

これは、「①→②→③→④→⑤」の流れを一区切りとして、最後の⑤により生じた感覚の情報(≒刺激)を再度、この流れに投げ込むことであり、これがそのまま状況の見直しや状況の変更、ひいては自ら周囲の環境を変えることにもつながります。

※つまりは、①から⑤までの流れを「ループ」させているのである。

※これ以降、このモデルを「能動モデル」と呼ぶこととする。

※受動モデルが駆動した直後に能動モデルも駆動する。

これら2つのモデルはそのどちらも欠けてはならないものであり、受動モデルに基づけば、意識の働きは「①→②→③→⑤」となり、④が欠けており、この流れの最後の⑤は状況や環境に対する「(自然な)(条件反射的な)反応」となります。

上に対する能動モデルに基づけば、意識の働きは「①→②→③→④→⑤」となり、これは④の思考の過程を挟んでいるので、人間自らが様々な物事について考えることが可能であり、この流れの最後の⑤は状況や環境に対する「(意図ないし意思される)活動」となります。

終わりに、まとめると、人間の意識とは、「①→②→③→⑤」(=受動モデル)と「①→②→③→④→⑤」(=能動モデル)の流れを一区切りとして、これを反復しているといえます。