宗教と科学の関係性(物事の起点と過程)

初めに、今回は、「宗教と科学の関係性(物事の起点と過程)」について述べていきたいと思います。

ここで、宗教は、古くから、この世界や宇宙の起源と、その発生理由を神の存在に求めてきました。

それに対する科学は、この世界や宇宙の起源と発生理由には(極力)言及せず、ひたすら森羅万象、物事の過程(=現象)を探求してきました。

つまりは、宗教と科学はこの世界や宇宙についての学術的な立場や棲み分けを異にしてきたことが分かります。

※それぞれに、扱う事柄や対象が違うともいえる。

ところで、なぜ、この世界や宇宙があるのかや、誰がその発生の要因をこしらえたのかなどについては、主観的にしか語れません。

※誰もが神の存在や意向を感得したり、経験することはできないので・・・。

※それ以前に、神の存在に対して懐疑的な立場もある・・・。

しかし、森羅万象、物事の移り変わる過程(=現象)については、誰もが認識・理解・納得することができます。

ですから、今日の高度に発展した文明社会があるといえます。

※科学には、対象についての観察と実験を通じて、この世界や宇宙への理解を進めてゆくという姿勢・態度がある。

したがって、科学は、物事の再現性や必然性を重んじるといえます。

また、物事の再現性や必然性があるからこそ、人々は物事についての認識や理解を共有することができ、それがそのまま科学になったともいえますね・・・。

※これこそが、「客観(性)」の正体である。

もしもこれが、一度限りの奇跡的事象や、到底、物事の道理や真理に照らしてもわからないことが起こったのならば、それはもはや、「客観性を欠いた経験・体験」になってしまうでしょう。

※そしてこれが、「主観(性)」の正体である。

つまりは、「宗教と科学」「偶然性と必然性」「主観性と客観性」という二項対立群が鮮明に浮き出てくるわけです。

最後に、結論をいえば、この世の物事には必然性があるからこそ、科学的に探究することができていて、対して、この世の初めには偶然性しかなかったからこそ、これは宗教の範疇となって、学術的な探究が阻まれてしまうのでしょうね・・・。

※ここで、神学や宗教学に比較的近しい(?)哲学(=形而下に限られる)という学問こそが、この世の初めを説明できるのではないでしょうか?。

※また、哲学の理論体系を応用・援用することで、既存の宇宙論とは別の観点から、この世界や宇宙の終わりまでについても探究することができるのかもしれませんね・・・。