究極のタブー(人生の意義や目的とは?)

初めに、今回は、「究極のタブー」について述べていきたいと思います。

ここで、いかなる科学をもってしても、「なぜ人は生まれてくるのか?」「なぜ人は生きていくのか」、はたまた、「なぜ、この世界や宇宙は今ある姿になったのか?」、「なぜ、この世界や宇宙は現にあるのか?」といった問いには答えられません。

なぜならば、科学とは、(どんなものであれ、)物事の過程や文脈について問うことはできても、その起源や発生については問うことができないからです。

したがって、こういった問いに対しては、宗教やスピリチュアルが答えていました。

しかし、それでも人によっては理解できない、あるいは納得できないといったことにもなり得ます。

ですから、この問いに対しては、(筆者個人は、)哲学こそが真剣に答えるべきだと考えます。

※宗教やスピリチュアルは、科学とは正反対な存在で、(どうも)来世的ないしはあの世の話ばかりに偏りがちです・・・。

※たとえば、"今生努力が報われなかったら、来世やあの世でこそ報われる"といった考え方ですね・・・。

ここで、カントについての研究で知られる哲学者の中島義道氏がいっている通り、あくまでも現世的にいえば、いずれは人生は終わって、この世界や宇宙もやがては終焉を迎えます。したがって、それでも人は生きていかなければならないとしたら、人生は虚しいものとなってしまいます。

しかし、人の死後には、意識や霊魂だけの世界が待っているのは、論理的・現実的にいって明白であって、だれもこのことからは逃れられないのですから、現世にだけフォーカスしても仕様がないわけです。

では、宗教やスピリチュアルだけが正しいのかといえば、そうではありません。

宗教やスピリチュアルは、多くの悩める人には一種の救いや慰めにはなるかもしれませんが、この世の現実に対してはあまりにも無力であり、また物事に対する理解も不足しているというのが事実でしょう。

※そういう意味で、(昔から)宗教やスピリチュアルは、"現実逃避に過ぎない"と批判されてきています。

最後に、では、哲学的に人生について考えるとどうなるのかといえば、それは、"いかなる人生も一度限りであって、あの世的な考えに逃避するのではなく、かといってこの世の利益や快楽ばかりを追求するのでもなく、常に自らの頭で考えて、物事の価値や本質を見極めて、これを追求していって、自己の達成や実現を目指す"。あるいは、"物事のバランスを取って、常に自己の快適さや生の充実を求める"といったことでしょうか・・・。

※まあ、簡単にいってしまえば、"わが身の自由を謳歌・堪能する"ことが、なによりも大事ですね・・・(笑)。

※そのためには、"人生の一瞬一瞬にこそ、物事の価値や意義のすべてがある"と信じることですね。

※もうこの時代では、"苦しいことの先に幸福が待っている"という考え方よりは、もうその日のうちに楽しいことをやってしまって、結果、それが幸福につながっているという考え方が主流なのしょう・・・。