人はなぜ生まれてくるのか?(汎神論とモナド論の合せ技)
初めに、今回は、「人はなぜ生まれてくるのか?(汎神論とモナド論の合せ技)」について述べていきたいと思います。
ここで、現代の科学(=宇宙物理学)は、この世界や宇宙の起源にだいぶ迫っていますが、それでもなお、この世界や宇宙がなぜ生まれたのかについては答えを出せていません。
※というよりは、本来、「科学」というものは、そういうものなのでしょう。
※つまりは、科学というのは、「物事の過程や文脈について問う」ことしかできないからでしょう。
したがって、科学に代わって、宗教やスピリチュアル界隈が、この問いに対して、(ある意味、)真摯に向き合ってきたといえますが、本来ならば、哲学こそが、この問いに一定の答えを提示するべきだと筆者個人は考えます。
※「神はいるのか」とか、「人はなぜ生きるのか」といった問いですね。
※これは一般に、「形而上学」と呼ばれています。
科学に対して宗教やスピリチュアルでは、開祖や教祖の個人的な思想や価値観が全面に出ているので、これを一般社会の共通了解としてみなすことは大変に難しい。
※これは、特定の国家や社会全体が、特定の宗教や信仰に依拠・依存することにもなりますし・・・。
※欧米などのキリスト教圏では、それが成功しているといえますが・・・。
筆者個人は、物事を究極的なまでに思考し、(あくまでも、)論理的な積み重ねをすることによってこそ、答えを出すべきだと思いますが・・・。
※ちなみに、キリスト教では宗派にもよると思いますが、現世に生きている人々は、「労働という苦役を課せられている」とか、「地上のあらゆる不幸・災難は、人間に与えられた罰」だと考えますね。つまりは、キリスト教の神は、楽園を追放された人間を嫌っているということですね・・・。
※日本の教派神道を代表する天理教では、「陽気暮らし」という考え方があって、これは、人間が地上で楽しく暮らしている様子を天上の神が見て喜ぶというものです。
※昨今のスピリチュアル界隈では、人類にとっての地上天国や黄金の理想郷である「ミロクの世」の到来を告げたり、しきりに「カルマの法則」を挙げて、世の中のすべての出来事のすべては「因果応報」「自業自得」だとかいっている方が多く見受けられます。
しかし、これらは、どれもが教祖や開祖の個人的な思想や価値観の域を出ないもので、だれもが理解・納得できるものとはいい難いでしょう・・・。
そこで、このことについて哲学的に考えるとはどういうことでしょうか?。
スピノザは、「この世のすべての存在は神の一部である」と考えたし、デカルトは、「この世のすべての存在(=特に人)は、(生来的に)世の中全体の調和・発展を受け持つもの」として考えました。
※ちなみに、筆者個人は、「スピノザの汎神論」や「デカルトのモナド論」がしっくりきます。
ここで、スピノザとデカルトの哲学を併せて援用すると、面白い結論を導くことができます。
それは、①「この世のすべての単一の存在(=モナド)は、神を源流・源泉としている」ということと、②「この世のすべての単一の存在(=モナド)は、この世の調和・発展に寄与するべく仕組まれている」ということです。
以上の①②からわかることは、この世のすべての人は、それぞれに使命や天命を与えられているということですね。これは、個人の適正や才能は、あらかじめプログラミングされているともいえます。
※個人の一生を左右する運命や運勢も仕組まれているということになりますが・・・。
結局、なにが言いたいのかというと、「各人が、(時々に)望むままを行う」というのが一つの真理であり、神の意志であり意図でもあるということになります。
※日本を代表するコミック『剣風伝奇ベルセルク』でも出てきますね。
筆者個人なりに考えてみましたが、「両親が愛し合ったから、今ここに自分がいる」とか、「その人の存在が社会から要請されたから」という程度の答えしか出せませんでした・・・(笑)。
最後に、つまりは、我々人間にできるのは、「この世で起こった出来事に対しては、常に後付けで意味を与える」ことだけです。それがいつの間にか、神なる者の意向に沿う形になっているという結果論こそが、この世界や宇宙を貫く真理なのでしょうね・・・。
※たとえば、「仕事の後のビールが美味しい」とか、「家族団欒の時間がいい」とか、そういった個々人の純粋な願望や欲求に従って生きるのが(我々人間にとっては、)自然体であり、いちばんいい形だといえます。
※では、犯罪者や愉快犯についてはどうかといえば、それは「神のみぞ知る」ところでしょうね・・・(笑)。