客観的世界の実在性

初めに、現象学で知られるフッサールなどが論じたように、よく哲学の世界で論じられるのは「客観的世界」は実在するのかということです。

つまりは、我々人間(=地球人類)の意識なく、この世界や宇宙はただ厳然とあるのか、我々人間の意識とは無関係に独立してあるのかということです。

しかし、我々人間の意識なくしては、この世界や宇宙は認識および理解されません。したがって、我々人間がいないことには、この世界・宇宙の実在は証明できません。

※以前上げた記事『卵が先か?、親鳥が先か?』、『二項対立の原理』でも述べさせていただいた通りに、どちらかが先にあって、どちらかが後にある、という類の問題ではないのです。”まずはじめに、その両方が同時にある”、というのが正答・正解なのです。

しかも、我々には、この世界や宇宙に対する共通の認識および理解があり、このことから、この世界・宇宙の実在は確かであり、我々人間同士が(なにかについての)会話をしたり、意思疎通ができたり、なにかの約束や契約も行うことができますから、やはり、この世界・宇宙は実在すると言えます。

※即ち、これが「客観(性)」である。

たとえば、人々がある特定の場所に、特定の時刻で待ち合わせができるのは、この世界や宇宙が厳然とあり、特定の場所が(勝手気ままに)移り変わることもなく、時も正確に流れている限りにおいては、やはり、このことは達成ならびに実現することが可能です。

しかし、ここで問題となるのは、このことがどのような場所であっても、何時いかなる時であってさえも、先のことが達成ならびに実現できるのかというと、それは誰にも保障することはできません。

この世界や宇宙の在り様および在り方が、常に一定であるということについては、我々人間の意識が及ばないからです。

したがって、神の意志、ないしは恣意によって、この世界や宇宙の在り様および在り方が、(突然にして)変わってしまうということも、原理的にはあり得ると言えます。

では、我々人間の持つ認識は間違っている、誤っているのかと言えば、そうではありません。認識は認識として、やはり厳然と機能している、働いています。

まず、主体はその内側に世界(の一部)を写し取り、そこから主観が生じます。

次に、複数の異なる主観同士の間で一致する部分が生じます。それが客観(性)です。

※即ち「客観(性)」=「複数の主観の合計」である。

※法律の世界では、複数の主観の合計が客観(性)と見做されている。

終わりに、(あくまでも)認識論的にいえば、我々の主観の「擦り合わせ」として客観的世界は実在するといえます。