知性と野性

'知性'とは、悟性と理性とを合わせたもの、あるいは、それらの総体です。

ここで、'悟性'とは、応性から引き継いだ概念や観念を統合する機能、あるいは、バラバラの概念・観念をまとめる働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターの頭脳である'CPU(=プロセッサー)'に各種の情報を集約・集結させる'IOコントロ―ラー'がこれに近いです。

'理性'とは、悟性によって統合された概念や観念の群をもとに思考を推進し、推論によって真理を探究する機能、あるいは、この世界や宇宙から物事の真理を導き出す働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターの頭脳である'CPU(=プロセッサー)'がこれに近いです。

'野性'とは、感性と応性とを合わせたもの、あるいは、それらの総体です。

ここで、'感性'とは、我々人間の五感のそれぞれを司って、外部や外界(=世界や宇宙)から各種の情報や情念を取得する機能、あるいは、我々人間と世界・宇宙とを隔てている境界にあり、外部・外界から人間の意識に情報や情念をもたらす働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターへの'各種入力装置に内蔵されている感受機器(=センサー)'といったものがこれに近いです。

'応性'とは、感性から引き継ぎ、人間にとっての外部や外界(=世界や宇宙)からもたらされる情報や情念をもとに、これらを概念や観念に変換する機能、あるいは、情報・情念を概念・観念に対応させて置き換える働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターへの'各種入力装置に内蔵されている感受機器(=センサー)に随伴し、これに直接的に接続されているコントローラー'といったものがこれに近いです。

以上は、カントの分析・考察をもとにして、わたしがさらに分析・考察を深めた結果をまとめてみました。

※ちなみに、カントは悟性の内に、感性から引き継いだ情報や情念を、概念や観念に変換する機能、あるいは、情報・情念を概念・観念に対応させて置き換える働きを認めていました。しかし、わたしはこれを一個の独立した機能・働きとして認めて、これを見出しました。わたしは、これに'応性(オウセイもしくはノウセイ)'という名を付けました。

最後に、知性は野性と連携して、野性から受け取った概念や観念を本処理することで、物事についての思考や判断を推進する、論理的に物事を考えて分別する機能や働きを我々人間に提供しているということです。このことから、知性とは極めて理知的なものであり、我々人間にとってはより上位(=ハイレベル)のものです。野性に対しては優位の立場にあります。

野性は知性と連携して、(我々人間にとっての)外部や外界から受け取った情報や情念を下処理することで、物事から感じ取れる印象や感想をもたらしたり、単純に外部・外界からの刺激を感覚に置き換える機能や働きを我々人間に提供しているということです。このことから、野性とは極めて感覚的なもので、我々人間にとってはより下位(=ロウレベル)のものです。知性に対しては劣位の立場にあります。

※やはり、今回とは別に上げた記事『卵が先か?、親鳥が先か?』、『二項対立の原理』でも述べたとおり、どちらかが先で、どちらかが後といった関係ではありません。しかし、"理性の存在こそが、人間が人間たる所以である"、とするならば、理性に軍配が上がります。つまりは、理性が野性に対して優位の立場となり、野性が理性に対して劣位の立場となります。