理解よりも共感を大切にする日本人(よくよく話を聞いていない)

初めに、説得やプレゼンテイションで説明からするというのは、物事の順を追って、1から10までを緻密・細密に追っていくことです。

筋道に沿うとか、筋道が立っているというのは、こういうことです。しかし、これには相応の手間や時間がかかります。

日本人(の多く)は、(相手を説得・説明する際に、)(相手の)理解を求めるための努力をろくにせず、また、相手の話を理解しようとする努力もロクにしていません。

具体的にいえば、説得・説明する方の意図が不明瞭・不明確であったり、表現力が貧しかったり、その反対に、説得・説明される方の理解力・租借力が貧しかったりします。

その結果として、そのやりとりは全体として、グダグダでダラダラとしたものとなり、話の要点が出てこなかったり、論点がズレまくったりしてしまいます。

何故、そのようなことになるのかといえば、「(相手の)理解を得るよりも (相手の)共感を得たり、(なんとなく、)正しそうなことに(上辺だけで)同意するほうが簡単」だからです。つまりは、その話が論理的に正しいとか、筋道が立っているかとは関係なく、人間の心に直に訴えてくること、即ち、日本では、頭脳を酷使するよりも、感覚的で直情的な反応で済ませることで、頭脳の酷使を避けたり、カロリー(≒エナジー)の消費を避けることが良しとされるからです。

さらに、難しい話は、例えを用いて、簡易・簡明にすることが良いこととされていますが、そもそも、高い理解力のある相手には、例えは不要な訳です。しかも、例えをすることで、物事の厳密さが損なわれてしまいますし、相手にとってはやりとりの時間がかかり、面倒な訳です。

ここで、説得やプレゼンテイションで結論からするというのは、物事の順番を飛ばして、いきなり、1から10まで飛躍・跳躍することです。

したがって、結論から話すことは、相手に相応の理解力・咀嚼力を求めることになり、やりとりの時間が少なくて済む。あるいは、会話がスムーズにいくのでストレスが少ないなどのメリットがあります。

では、結局のところ、上に挙げた両者はなにが違うのでしょうか?。

前者は、説得・説明する方の精神的・頭脳的な負担(=ストレス)が大きくなり、逆に、説得・説明される方はその負担が小さくなります。これに対して、後者は、説得・説明する方の精神的・頭脳的な負担が小さくなり、逆に、説得・説明される方はその負担(=ストレス)が大きくなります。

終わりに、究極的にいえば、説得・説明する方とされる方の双方の理解力・租借力が貧しいと、どこまでもダラダラとやりとりが続くことになり、時間がかかります。これとは逆に、説得・説明する方とされる方の双方の理解力・租借力が豊かだと、お互いの持てる時間を削らなくて済みます。