笑いとナンセンス(会話の一形式・一形態)
初めに、ある話者(=テレビ芸人など)がリンゴを指さしながら「これは バナナです」というのは一見ナンセンスなことですが、不思議とその会場や共有空間の中では、あえて誰もその誤り・間違いを指摘しないです。
その場にいて笑っている人達もあえてその誤り・間違いを指摘しないですし、指摘しないことが笑いのキモになっているともいえます。
これは、明らかな誤り・間違いをも共有することで「内輪の笑い」を誘っているのですね。
つまりそれは、あえて誰もがその誤り・間違いに気づいていても、そのことを指摘しないことで、この世の中であらゆる不条理や理不尽がまかり通っていることを象徴的に受け入れていることになります。
※ではなぜ、ナンセンスな言行が人々の笑いを誘うのかといえば、それは、日常において、そういった人達が日常的に様々な理不尽や不条理に直面することが多く、現実世界・社会では必ずしも物事の道理が通らないことに対する皮肉や現実に対する意趣返しが隠されているため。
したがって、明らかな不道徳や公序良俗に反することでもウケが良ければ通ってしまいます・・・。逆に、現実が酷い状況であればあるほど、そのナンセンス振りも度を極めていくのです・・・。
昔ほど露骨ではないにしても、日本のお笑いは誰か社会上の特定の人物を(できるだけ本人だけには分からないやり方で)揶揄したり、皮肉ったり、嘲ったりしてネタにしてきた一面があります。
※秋葉原界隈に出没する「オタク」などが標的にされたことはしばしば・・・。
「笑い」(=特に日本の「お笑い」)には、そういった一種の危険性があると思います。
簡単に言ってしまうと、「(社会的に弱い、あるいは劣等とされる)人のアルアル」というジャンルやカテゴリィを設けることで、現実のウサを晴らしているのが、日本のお笑い界といえるでしょうね・・・。
終わりに、人間同士の会話には、こういった摩訶不思議な形式・形態もあるということでした・・・。
※それは、大衆の鬱屈した感情を上手く救い上げた手法ともいえる・・・。
※(1対1や、1対多の状況下では、)単に、話の聞き手・受け手を困惑させたり仲間外れにするという機能や目的もあるかもしれないが・・・。
「主体=主観(性)」と「客体=客観(性)」という大きな誤解
初めに、主体(=中心)は客体(=対象)に働きかけて、客体は主体に働きかけられます。
ここで誤解されやすいのは「主体=主観(性)」「客体=客観(性)」という関係(式)です。
ここから、その誤解を解いていきます。
ここで改めて、「主観(性)」とは、一方が他方(≒モノ自体)から何らかの刺激や感覚を受け取ること。あるいは一方の受け取る刺激や感覚そのものといえます。これは単一の事実関係であり、これは単方向です。
上に対する「客観(性)」とは、相互の関係(性)、たとえば「見る側」と「見られる側」の複数の事実関係であり、これは双方向です。
したがって、客観(性)とは主観(性)の「スーパーセット」であり、これを逆にいえば、主観(性)とは客観(性)の「サブセット」であるということができます。
翻って、客観(性)こそが主観(性)に対して優位にあることがお分かりになると思います。
※ちなみに、客観(性)を別の言い方でいえば、「集団内における認知の合意」、あるいは「共通認識」ともいえる。
この考え方は、釈迦の唱えた「空」の思想にも通じます。
※「空」とは、相互に関係し合う存在達が、この世界や宇宙を成り立たせており、何が欠けても、全体として成り立たない状態や状況を指す。
さらに続けると、主体が「能動的な存在」であり、客体が「受動的な存在」であるがゆえに、前者が優位にあり、後者が劣位にあるのは自明です。しかし「主体が主観(性)」と「客体が客観(性)」と同一視されているのは大きな誤解です。
あくまでも、主体と客体とは、前者が後者に働きかける(=一定の作用を及ぼす)ことと、後者が前者から働きかけられる(=一定の作用を及ぼされる)ということであり、直接には、主観(性)と客観(性)の観念とは結び付かない訳です。
むしろ、「見る&見られるの関係(性)」についていえば、事の始めに、見られる側が常に外部に対して光を発して(あるいは反射させて)、見る側の視覚に影響を及ぼしているのですから、本来であれば、見られる側が主体であり、見る側が客体とならなければいけないのです。
※例として、演劇やコンサートなどでは、見せる側(≒見られる側)が「主(=ホスト役)」を務めており、見せられる側(≒見る側)が「客(=ゲスト役)」を務めている。
終わりに、まとめると、「客観(性)=優位」「主観(性)=劣位」であり、加えて、「主体=優位」「客体=劣位」となります。
※多分にこの誤解は、「主」と「客」という漢字の入り乱れた使用が招いているといえる。
※今後は、「客観(性)」→「集団(的)認知」、「主観(性)」→「個我(的)認知」とでもするべきでは?。
3つのアウフヘーヴェン(社会形成のメカニズム)
初めに、『精神現象学』で知られるヘーゲルの唱えた「アウフヘーヴェン(=止揚)」とは、始めにカルチュア(=既成の文化&枠組み&価値観)があって、そこからカウンターカルチュアが生じて、その両者をぶつけて合体・融合させることで新しい文化&枠組み&価値観を生じさせるということでした。
※また、「正(=前からの存在)」+「反(=後からの存在)」=「合(=新しい存在)」という図式のことでもある。
ここで、アウフヘーヴェンには3つの種類があります。それをここから説明します。
一つ目について、正と反は存在的・概念的に対立しますが、正と反が相互に矛盾しないように上手い具合に両者を擦り合わせた上で、両者のメリットのみを合併させて両者の「良いとこどり」をしたのが合です。また、これが本来のアウヘーヴェン(=いわば「実のアウフヘーヴェン」)です。
二つ目について、正と反が相互に矛盾する部分を調整・調停(=両者のメリットとデメリットを相殺)をしたのも合です。また、これもアウフヘーヴェン(=いわば「中のアウフヘーヴェン」)です。
三つ目について、正と反の両者のデメリットのみを合併させて両者の「悪いとこどり」をしたのも合です。また、これもアウフヘーヴェン(=いわば「虚のアウフヘーヴェン」)です。
このことを例を用いて説明します。
例えば、モータリゼイション以降、歩行者と自動車にはそれぞれの通る道を用意されていて、それぞれに専用の路面の上を移動することが「実のアウフヘーヴェン」)です。
次いで、一つの路面上に歩行者信号を設けることで、歩行者と自動車が時間的に交互に道を譲り合うことが「中のアウフヘーヴェン」です。
そして、仕切り(=ガード)も信号もない一つの路面上に、歩行者と自動車が一緒くたになって、歩行者と自動車が混在する恰好で路面を共用するのが「虚のアウフヘーヴェン」です。
ところで、「実のアウフヘーヴェン」は社会全体を上昇させて豊かさをもたらしますが、「中のアウフヘーヴェン」は社会全体を停滞させ、「虚のアウフヘーヴェン」は社会全体を下降させて貧しさをもたらしてしまいます。
終わりに、アウフヘーヴェンには三つの種類があり、それぞれに意味や働きが異なるのでした。
複雑な文章についての真偽判定(総合評価ないし統計学的手法)
初めに、ある文章が論理的な形式に則っているのならば、その真偽を簡単に確かめることできます。
しかし、世の中には、簡単には真偽の判定のできない複雑な文章が多くみられます。
この場合にはどうすればよいのでしょうか?。
例えば「ジュースの効能・効用と 糖尿病の誘発リスクについて書かれた論文」について仮定・想定してみます。
ここで、(前段として、)ジュースに含まれる糖分が糖尿病を誘発することが科学的に認められているという旨の文を置きつつも、(後段として、)ジュースを飲むことによって、脳の働きが活発になるとか、集中力・注意力が増すとかいった旨の文が置かれているとします。
※この場合には、論文の前段が「導入」や「前置き」に当たり、論文の後段が「結論」に当たる。
したがって、この内容の論文では、「ジュースが脳の活動を増進する」と言いたい訳です。
さらに、ここで、(前段として、)ジュースを飲むことによって、脳の働きが活発になるとか、集中力・注意力が増すとかいった旨の文が置かれつつも、(後段として、)ジュースに含まれる糖分が糖尿病を誘発することが科学的に認められているという旨の文が置かれているとします。
したがって、この内容の論文では、「ジュースを飲むと糖尿病になる」ということを言いたい訳です。
つまりは、初めに例示した文章の前段と後段の配置を入れ替えたことによって、結論が反転してしまう訳です。
こういった前後で内容の相反する、あるいは矛盾する文章というのは、簡単には白黒をつけられません(=真偽が定かでない)。
では、どうすれば、この問題を解決できるのかといえば、それは「総合評価」ないしは「点数化」の手法を用いることです。
ここでいう「総合評価」とは、物事の良し悪し、ないし功罪については、その両面について評価し、物事を総合的に判断するということであり、物事を「点数化」するということでもあります。
先に挙げた例でいうと、ジュースの飲みすぎが糖尿病の原因であり、同時に、適量であれば、脳の活動増進に資する、益するということでもあります。
したがって、ジュースそのもの(その存在)についていえば、「功罪は相半ばする」=「決定不能」となり、条件付きで、「人間の脳の活動に資する ないしは益する」=「決定可能」といえることになります。
さらにここから踏み込んで、ジュースを愛飲する人と、そうでない人との間で、仕事や勉強の捗り具合にどの程度の差があるのかや、糖尿病の発症率の違いについて統計学的調査をした上で、そのメリットとデメリットの両者を秤にかけて、計量的に判断するということもできます。
※当然のことながら、被験者達には毎日一定の量、同じジュースを飲んでもらう。
終わりに、(単純かつ明快な)論理的形式に則っとらない(比較的)複雑な文章については、その真偽の判断において、より高度な手法・技法が求められるということでした。
※ただし、この場合の「真偽」とは、純粋な論理学に基づくほどの厳格・厳密な意味ではないことに注意されたし。
AI&コンピューターが心を持ちえない訳(機械の塊に霊魂は宿るのか?)
初めに、人間の意識や心には、様々な感情や感覚が生起します。
ここで、ロボットが人間の表情を読み取って、時に、人間を慰めたり、励ましたりといった演技はできます。
ロボットには、様々なセンサー(=人間の感覚器官の模倣物)が搭載されているので、感覚を疑似的に再現することもできます。
したがって、この果物は糖度が高いから「甘い」のだろうと推測をして、「甘い」という言葉を発したり、そういう反応はできますが、やはり、それは演技でしかありません。
なぜならば、そのセンシング(≒感覚)の先にある「クオリア」(=質感,感覚質)までは得られません。
では、クオリアとは何なのでしょうか?。
人間は、肉体の感覚器官を通じて刺激を取り入れて、それを意識や心の働きによって、様々な「感覚や感情」に置き換えます。それがクオリアです。
したがって、クオリアとは、意識や心の生成したものなので、意識や心の仕組みや働きを解明できない限りは、再現できない訳です。
しかし、意識や心の仕組みや働きを神経生理学や人体解剖学などの見地から、いくら研究してみても、人間の霊魂といった存在については分からないままです。
筆者個人は、霊魂の存在にこそ、(人間の)意識や心の秘密が隠されていると考えます。
最後に、コンピューターとは、機械の部品の塊なので、それに霊魂は宿りようがないし、意識や心が宿ることもないということでした。
理解よりも共感を大切にする日本人(よくよく話を聞いていない)
初めに、説得やプレゼンテイションで説明からするというのは、物事の順を追って、1から10までを緻密・細密に追っていくことです。
筋道に沿うとか、筋道が立っているというのは、こういうことです。しかし、これには相応の手間や時間がかかります。
日本人(の多く)は、(相手を説得・説明する際に、)(相手の)理解を求めるための努力をろくにせず、また、相手の話を理解しようとする努力もロクにしていません。
具体的にいえば、説得・説明する方の意図が不明瞭・不明確であったり、表現力が貧しかったり、その反対に、説得・説明される方の理解力・租借力が貧しかったりします。
その結果として、そのやりとりは全体として、グダグダでダラダラとしたものとなり、話の要点が出てこなかったり、論点がズレまくったりしてしまいます。
何故、そのようなことになるのかといえば、「(相手の)理解を得るよりも (相手の)共感を得たり、(なんとなく、)正しそうなことに(上辺だけで)同意するほうが簡単」だからです。つまりは、その話が論理的に正しいとか、筋道が立っているかとは関係なく、人間の心に直に訴えてくること、即ち、日本では、頭脳を酷使するよりも、感覚的で直情的な反応で済ませることで、頭脳の酷使を避けたり、カロリー(≒エナジー)の消費を避けることが良しとされるからです。
さらに、難しい話は、例えを用いて、簡易・簡明にすることが良いこととされていますが、そもそも、高い理解力のある相手には、例えは不要な訳です。しかも、例えをすることで、物事の厳密さが損なわれてしまいますし、相手にとってはやりとりの時間がかかり、面倒な訳です。
ここで、説得やプレゼンテイションで結論からするというのは、物事の順番を飛ばして、いきなり、1から10まで飛躍・跳躍することです。
したがって、結論から話すことは、相手に相応の理解力・咀嚼力を求めることになり、やりとりの時間が少なくて済む。あるいは、会話がスムーズにいくのでストレスが少ないなどのメリットがあります。
では、結局のところ、上に挙げた両者はなにが違うのでしょうか?。
前者は、説得・説明する方の精神的・頭脳的な負担(=ストレス)が大きくなり、逆に、説得・説明される方はその負担が小さくなります。これに対して、後者は、説得・説明する方の精神的・頭脳的な負担が小さくなり、逆に、説得・説明される方はその負担(=ストレス)が大きくなります。
終わりに、究極的にいえば、説得・説明する方とされる方の双方の理解力・租借力が貧しいと、どこまでもダラダラとやりとりが続くことになり、時間がかかります。これとは逆に、説得・説明する方とされる方の双方の理解力・租借力が豊かだと、お互いの持てる時間を削らなくて済みます。
帰納と演繹②(実体と現象の取り扱い)
初めに、今回は、「帰納と演繹②(実体と現象の取り扱い)」を書いていきたいと思います。
ここで、「帰納と演繹」は、それぞれに「実体と現象」を取り扱い対象とします。
先ずは、帰納と演繹が「実体」を取り扱う例を先に示します。
例えば、各家庭で飼われている「(個々具体的な)ネコ」が「インスタンス,instance」とすると、「ネコ科」という生物学上の分類は「クラス,class」となります。
つまりは、インスタンスは至って具象的なモノであり、クラスは抽象的なモノであるということです。
※抽象度の低いのがインスタンス、抽象度の高いのがクラス。
次に、帰納と演繹が「現象」を取り扱う例を示します。
例えば、(現実に、)目の前で物体が落下する「現象の様子」が「パターン,pattern」とすると、「(数式による)現象の記述」が「ロウ,law」となります。
つまりは、パターンは至って具象的なコトであり、ロウは抽象的なコトであるということです。
※抽象度の低いのがパターン、抽象度の高いのがロウ。
さらに、実体については、それらの「類似性」に基づいて抽象化がされて、対する現象については、それらの「法則性」に基づいて抽象化がされます。
最後に、帰納と演繹の両方とも、実体と現象の両方を取り扱うのでした。