(前提)条件+結論の形式(「真の文」と「偽の文」)

初めに、今回は、「(前提)条件+結論の形式(「真の文」と「偽の文」)」について書いていきたいと思います。

ここで、「(前提)条件+結論」という形式の文には「真偽の別」があります。

例えば、a1「あなたには 知恵がある よって(だから) あなたは賢い(愚かでない)」という文は「真」です。加えて、a2「あなたには 知恵がない よって(だから) あなたは賢くない(愚かである)」という文も「真」です。

上の文に対して、b1「あなたには 知恵がない よって(だから) あなたは賢い(愚かでない)」という文は「偽」です。加えて、b2「あなたには 知恵がある よって(だから) あなたは賢くない(愚かである)」という文も「偽」です。

前者aは、論理的な破綻がない、即ち、整合性の取れている文であり、その趣旨や論旨は明瞭・明確です。したがって、その文は「有意」であるといえます。

後者bは、論理的な破綻がある、即ち、整合性の取れていない文であり、その趣旨や論旨は不明瞭・不明確です。したがって、その文は「無意」であるといえます。

※もっとも、後者bの偽の文については、発言・発話者自身が葛藤している、あるいは、(善悪などの)判断に迷っているとも解することができる。

※しかし、「排中律(=中間を許容しないということ)」の観点からは、無効と見做される。

※前者aの文のうち、1についていえば、これは相手を褒めることになり、2についていえば、これは相手を貶すことになる。

※後者bの文は、意味を成さないゆえに、これを聞き流してよいが、あえて問い直すこともできる。

※これを問い直す場合には、「(前提)条件 もしくは 結論のどちらに合わせて解釈すれば良いか?」と言えばよい。

ここで、よく巷では、歴史に名を残している過去の先人について、その生涯に亙る「功罪」が問われることがあります。

功罪についていえば、(その人物が)ある部分では世の中を良くしてくれた。また、別の部分では、世の中を悪くしたということが同時にいえるということであり、この両者は全く矛盾しません。

※ただし、物事をトータル(=総合評価・総合判断)で観る場合には、「プラス」「マイナス」ないし「ゼロ」と結論付けられなければならない。あるいは「点数化」されなければならない。

※この観方でいえば、功と罪は「相反」「相克」(=弱い、あるいは緩い矛盾・対立関係)するといえる。

最後に、(一部の文について、)それが、論理的に正しいのか、正しくないのかを問うことができる。即ち、その文が成立する(=真)か、あるいは、成立しない(=偽)かを判定・判断できるということでした。

メビウスの輪(因果と時間のループ)

初めに、巷には、因果や時間は無限にループ(=循環)しているといった主張や言説が見られますが、それらがループしているのであれば、必ずや、それを「何周」したかという概念や観点が生じます。

無限のループとしては「メビウスの輪」が挙げられますが、メビウスの輪の上を何週したのかが分かれば、それは一本の線(=時間)にすることができます。

想像してみてください、紙でできたメビウスの輪にハサミを入れると、当然のことながら、一本の紙片になります。

※というよりも、一本の紙片を輪っか状にしたものが、メビウスの輪である。

このことから、因果や時間がループしているという主張や言説はナンセンスだということが分かりますね。

したがって、因果や時間は一本の線だということができます。

ここで、因果や時間について無限に遡っていくとしたら、どうでしょう?。

そうすると、因果や時間の系列を無限に経なければ、現在や未来(の認識)にたどり着けませんよね。

したがって、因果や時間の流れというのは「有限」であり、必ずや、因果や時間には始まりがあることになります。

※この宇宙は「無」から生じた、あるいは「無が転じたもの」というのが、今日の物理学の主流派である。

※「有」と「無」の間を量子が揺らいでいて、ある時に、トンネル効果によって、無から有に転じたとされている。

それでは、その線の始端は誰が作ったのかといえば、「宇宙論的」にいえば、「神」や「自然」が作ったということになるでしょう・・・。

最後に、因果や時間のループの正体は、きちんと両端の揃った一本の線に過ぎないということでした。

定性分析と定量分析(文系と理系の関係)

初めに、今回は「定性分析と定量分析(文系と理系の関係)」について書いていきたいと思います。

ここで、「定性分析」とは、自然現象や社会現象のメカニズムについて、その「性質」に着目して分析すること。あるいは、ある物事の法則や規則を「日常の言葉」によって表現して説明すること。

上に対して、「定量分析」とは、自然現象や社会現象のメカニズムについて、その「数量」に着目して分析すること。あるいは、ある物事の法則や規則を「数学の言葉」によって表現して説明すること。

簡単に言ってしまえば、前者は「文系的」な仕事であり、後者は「理系的」な仕事となります。

しかし、問題や課題の分析に際しては、定性分析と定量分析の両方が必要になることから、両者の関係や能力は、本来、同質であり、その根っこは同じはずです。

つまり、凡そ、人間の持つ能力というのは「文理」の両方の総合点(あるいは、掛け合わせ)だということですね。

ただし、いわゆる「文系」の能力が、「理系」の能力に先んじていることは、意外と知られていないのではないでしょうか?。

ではなぜ、文系が理系に先んじてあるのかというと、我々人間は肉体的な感覚を通してしか、物事を把握できないからであり、その物事を数量でもって表すことは、前者の後だからです。

※文系とは、いわば「感性の学問」であり、人間の持つ感覚を最大限に生かして、物事の全容をなるだけ、(自然な)日常の言葉でもって表現して、これを他者に説明することが求められるのでした・・・。

※実際「数や定理の発見」(=数学および定量分析の手法の確立)は、人間が自然言語を獲得した後のことですし・・・。

ただし、このことを以て、「文系人間」が「理系人間」よりも偉いことにはなりません・・・。

なぜならば、あくまでも、文系能力の獲得の次に求められるのが理系能力の獲得であり、文系能力だけしかない人間に比べて、理系能力をも獲得した人間のほうが市場価値が高いと観るのが妥当だからです。

※実際、数学者や数学的な知識や教養を持っている人間のほうが、国際平均で年収が高いことがデータで示されていますしね・・・。

最後に、文系能力が理系能力よりも、その発達・獲得においては先んじている。しかし、どちらがより高度か(=ハイレヴェルか)でいえば、後者のほうに軍配が上がるという話でした・・・。

※一般に、高校・大学入試などの問題を見てみれば、文系問題よりも、理系問題のほうが、(ずっと)高い理解力を求められることが分かりますよね。

二項対立マップ(対置・対立の原理図)

初めに、ありとあらゆる存在や性質はグラフにして説明できます。

 

例えば、あるグラフの横軸に、「本能(=感覚)」=「暗愚」=「闇」=「混沌(=無秩序)」=「偶然(性)」=「無為・自然(的)」=「野性(的)」=「蛮性(的)」=「肉体性(的)」=「物質性(的)」=「有限(性)」=「可視性(的)」や、「男性性(的)」=「破壊性(的)」=「先発・能動的」=「積極性(的)(=自発的,攻め側」=「陽性(気)」=「攻撃性(的)」=「暴力(的)」や、「個人主義(=利己主義)」=「独断・独裁制」=「主観性(的)」=「宗教(的)」=「文系(的)」や、「汚濁」=「醜(的)」や、「パトス」などを取ることができます。

 

上に対して、あるグラフの縦軸に、「智慧(=知識)」=「賢明」=「光」=「秩序」=「必然(性)」=「人為・文明(的)」=「知性(的)」=「理性(的)」=「精神性(的)」=「無限(性)」=「不可視性(的」や、「女性性(的)」=「創造性(的)」=「後発・受動的」=「消極性(的)」=「陰性(気)」=「防護性(的)」=「平和(的)」や、「集団主義(=利他主義)」=「合議・共和制」=「客観性(的)」=「科学(的)」=「理系(的)」や、「清純」=「美(的)」や、「ロゴス」などを取ることができます。

※この考え方は、京都学派の一人である「三木清」の『構想力の論理』に基づく。

 

すると、あらゆる物事を評価するための2次元の座標系(=平面空間)が出来上がります。

※横軸が縦軸に対して、「優位」に当たり、「原因」に当たります。

※縦軸が横軸に対して、「劣位」に当たり、「結果」に当たります。

 

終わりに、あくまでも、これは、我々人間が現に生きている肉体や物質の世界(=この世)について当てはまることであり、精神や霊魂の世界(=あの世)では、この原理図における「優劣・因果の関係」が逆転します。

※つまりは、「この世」では、お金や目に見えるモノに重きが置かれていて(=価値が認められやすくて)、これに対して、「あの世」では、知識や目に見えないモノに重きが置かれている(=価値が認められやすい)といえます。

※もっとも、筆者は、「あの世」の実情・実態を見てきたわけではありませんが・・・笑。

因果関係と相関関係(グラフは似たもの同士?)

初めに、改めて世の中一般では「因果関係」と「相関関係」が混同されているように感じます。

ここから、因果関係と相関関係の違いを分かりやすく説明します。

先ず、因果関係とは、二項ある内の一方が他方を生み出す、あるいは一方が他方に影響を及ぼすという関係(性)です。

例えば「降雨量と傘の売上の関係」です。

これは、(当然のことながら、)「雨が沢山降れば 傘が沢山売れる」というロジックです。

つまり、雨が降ることが原因となって、傘が売れるという結果に繋がるということです。

このことをグラフにすると、横軸(=x軸)に「雨量」を取り、縦軸(=y軸)に「傘の売上」を取ります。

※一般に、横軸(=x軸)に「原因」を取り、縦軸(=y軸)に「結果」を取る。

次に、相関関係とは、二項の両方が(同時に)互いに影響を及ぼすという関係(性)です。

例えば「ソースとスパゲッティの売上の関係」です。

これも、(当然のことながら、)「ミートソースとスパゲッティは同時に売れる」というロジックです。

※経済学では「補完財」という。

このことをグラフにすると、横軸(=x軸)と縦軸(=y軸)のそれぞれに、ミートソースとスパゲッティのどちらを取っても良いことになります。

※因果関係を表すグラフと比較して、グラフの読み取り方が変わるだけである。

※相関関係では定義上、二項の両方が初めに出揃っていなければならないことになる。

※二項ある内の一方が他方を生み出すのではないということである。

終わりに、因果関係と相関関係は、グラフにすると似たものになってしまうのも混同の一因ではないでしょうか?。

降水確率50%の謎&秘密(結局は分からないということ)

初めに、今回は、「降水確率50%の謎&秘密(結局は分からないということ)」について述べていきたいと思います。

ここで、世の中には、物事の生起確率が「50:50」(=fifty-fifty)となる事例があります。

たとえば、降水確率50%ということは、逆をいえば、雨が降らない確率も50%なので、これは、決定的な事象・現象ではないのは明らかです。

その日の天気が雨になるのか晴れになるのかが判然としないということですから、天気予報としては機能していないということを(なんとか?)誤魔化している訳ですね。

※いっそのこと、「天気予報」ではなく「天気予想」と言い換えてしまって、さらには、降水確率が50%となる事態・状況については、情報の受け手(=主にはテレビの視聴者)に向けては、傘を持ち歩くべきかは、「各自の判断に委ねる」とすればいいだけのことなのですが・・・。

※天気が変わってから、予報内容を修正するなんて、ナンセンス過ぎます・・・笑。

※つまりは、「予報内容を修正する」という表現・言葉自体が論理的に破綻しているわけです・・・。

気象庁や、そこにぶら下がっている全国のテレビ局の気象部門は、過去の予測結果と現実の予測結果がどの程度、解離しているのか、あるいは、整合しているのかという、(日本における)気象観測の膨大なデータを一般に公開してしまって、どのテレビ局の、あるいは、どの気象会社が優れているのか、誰が見ても一目で分かるようにするべきではないでしょうか?。

※少なくとも、そういったプラットフォームを構築・用意して、さらに付け加えるならば、気象観測衛星をバンバン打ち上げて、日本の産業の一角に据えてしまうなんてことも、可能性としては考えられます。

しかし、日本国内における気象予測に強目の競争原理を持ち込めば、それ自体、一つの市場になるような気がするのですが、どうにも、この国では、こういった、他者(=他社)を出し抜いたり、頭一つ飛び抜けるようなことは忌み嫌われているので、未来永劫、実現しないかもしれませんが・・・笑。

ちなみに、気象庁の見解では、降水確率50%というのは100回の試行のうち、その半分の50回は雨が降ることと定義されているようです。しかも、降水確率0%でも雨が降ることもあるとされています。

※これでは、なんのことやらサッパリですね・・・笑。

あくまでも、世の中で天気の予報を必要としている人達にとっては、今日明日に雨が降るのか降らないのか、降るとしたら、どのぐらいの雨量・勢いなのかが知れないとなんの意味もないのですが・・・。

※オマケに、降水確率0%の日でも雨が降ると言い出したら、もう予報でもなんでもないですし・・・。

あくまでも、「天気予想」ではなく「天気予報」という表現になっているのは、「(技術的な)予測」よりも「(神憑り的な)予報」に拘る人達がいるせいではなく、ひょっとしたら、(世の中の人達の)「語感」や「音感」の問題も絡んでいるのかもしれませんね・・・。

最後に、日本の気象予測の建前では、いくらでも嘘や誤魔化し、詭弁が通ってしまうのでした・・・。

言語の奥底にあるもの(感情表現・伝達のためのツール)

初めに、今回は、について書いていきたいと思います。

ここで、言語とは文字や記号によって、人間の思考や感情を表現ないし伝達するための手段・ツールです。

更にいえば、思考や感情は心や意識から生まれます。

では、心や意識とは何でしょうか?。

私が考えるに、心は意識の中にあり、心は外界からの刺激によって駆動する意識のエンジンです。

刺激を受けて心が動き、感情が生じる。

そして、この感情を処理するために思考が働く。

思考が働くから、判断や行動が可能になる。

強いていえば、心は感情の器でもあるのです。

最後に、感情や感動、即ち、心の動きこそが言語の発生原因であり、言語活動の動機なのです。