攻守一体(攻防一体)の原理

まずはじめに、”守る”ということについて述べていきたいと思います。

”守る”とは、自己の境界(=自陣)の内側にいる敵を駆逐・排除する動きのことです。

その反対に、”攻める”とは、自己の境界を広げる(=自陣の防衛線を上げる)ことです。

ここで、”自己の境界を広げる”とは、自己の支配の及ぶ領域を広げることに他ならないのです。つまりはこれが、”攻める”ということの要点であり、要件なのです。

先述したことから、”守る”ことと”攻める”こととは、一体の関係にあることがわかります。

では一体なにが、物事を両者に分けるのか。両者の違いについて述べたいと思います。

たとえば、”守る”ということを、(ある適正な基準にもとづいて、)強く行うこと、守ることに積極的に取り組むことが、そのまま、その意味を転じて”攻める”こととなります。

これを、そのまま逆に言えば、”攻める”ということを、(ある適正な基準にもとづいて、)弱く行うこと、攻めることに消極的に取り組むことが、”守る”ということとなります。

巷では、よくスローガンのように聞く「地域をまもろう」とか「仲間をまもろう」という言説がありますが、これは過度に行き過ぎると、他のコミュニティーや、世の中の不特定の人を敵方に仕立てて、相手と敵対するということを意味するようにもなります。

最悪の場合、言葉の暴力や身体的な暴力によって、他のコミュニティーを制圧したり、不特定の人を、自分(達)のいいなりにする(=コントロールする)等の事態となりえます。

大変皮肉な話ですが、これは、物事の原理・原則に従えば、実に自明なことなのです。

自分にとって”大切なものを守ろう”と必死になるあまり、他を省みず、世の中の多くの人々を犠牲にしている、他者を踏みつけにしている、ということも充分にありえます。

つまりは、”守る”こととは”攻める”ことであり、”攻める”こととは”守る”ことである、という絶妙なバランス感覚が必要、あるいは、大切になるということが言えるでしょう。

もしも、これを読んでいる方々が、容赦なく否応なく他者と敵対してしまった時や場合には、敵対している当の相手に対して、こちらが適度な対応をするようにしましょう。

それは、'攻守一体(攻防一体)'の考えや構えであり、それが結果として、相手への適度な'牽制'となり、相手との間には、適度な距離感や緊張感を生み出すことができます。

これにより、相手から一方的に攻められたり、非難を浴びるという事態を避けられます。また同時に、自分自身が同じことを相手に対して行うという事態も避けられます。

※ちなみに、敵対している相手が守りに入っている時や場合に、こちら(=自分自身)が、相手の陣地に攻め込むことは、こちらが、攻めることに'積極的'に取り組むこと(=守ることに消極的に取り組む)こととなり、決定的な一打・出来事ととなるでしょう。

※この逆に、相手が攻めに入っている時や場合に、相手の陣地に攻め込む(=「負けじ」と応戦する)ことは、こちらが、守ることに積極的に取り組むこと(=攻めることに消極的に取り組むこと)となり、これもやはり、決定的な一打・出来事ととなるでしょう。

※お互いに相手の出方をうかがっている、腹の内を探り合っている(=決定的な展開のない)時や場合は、”お互いに牽制し合っている”、ということになるでしょう・・・(笑)。