道具の使用と可能性の追求

初めに、今回は、「道具の使用と可能性の追求」について述べていきたいと思います。

ここで、家やクルマを購入したいのであれば、お金をつかう必要があります。

どこかへ移動したいのであれば、クルマや自転車をつかう必要があります。

会社でデスクワークしたいのであれば、パソコンをつかう必要があります。

機械を修理したいのであれば、工具をつかう必要があります。

作物を栽培したいのであれば、農具をつかう必要があります。

つまりは、"将来(ないしは未来)の可能性を追求するということは、なんらかの道具を使用する"ということになりますね・・・。

※人間は(誰しも)、このことを(ほとんど)無意識・無自覚に行っています。

最後に、「道具の使用」とは、そのまま、自らの「可能性を追求」、(あるいは選択)するということです。

※ちなみに、人間の「筋力」や「体力」といった、すべての「力」は道具的な存在ではなく、道具の使用よりも前の段階で要請されるものです。

※また、「エナジー」についても同様です。

※さらに、「力」や「エナジー」よりも前の段階で要請されるのは「意志」ですね。

※人間は、「意志」があるから「力」をつかうことができるし、「力」があるから「道具」をつかうことができるということです。

※人間には、意志が備わっているからこそ、自らの可能性を追求していけるのですね・・・。

認識論(イデアを駆使するということ)

今回は、「認識論」について述べていきたいと思います。

ここで、形や特徴のそれぞれ異なる存在(=ヒトでも動物でも、クルマでも電車でもなんでもいい)が、いくつかあるとします。

※極端な話、この世に形のある存在(=物体)でなくても、形のない「概念」や「観念」でもいいですよ(笑)。

人間が、それぞれの存在を認識して、その存在の名前・名称を言い当てることができるのは自明であり、当然のことです。

ではなぜ、我々人間には、それができるのか?・・・。

それは、"「イデア」を駆使している"からです。

つまりは、人間が、なにかの存在を認識する際、認識の対象であるそのなにかと、それに対応するイデアを突き合わせているのです。

最後に、その結果として、アレとコレは「同じだ」とか、「違う」といった答えが出るのです。

※「イデア」とは、現実にあるものの「理想形」みたいなもので、AIや機械学習の世界では「教師信号」と呼ばれます。

※例えば、「クルマのイデア」は、"この世に実在する無数のクルマに共通する形や特徴"といえますね。

※我々人間は、乳幼児期の脳や意識が発達する過程・段階で、この「イデア」を経験を通して獲得するように造られているのでしょう。

「二項対立」と「二項両立(=二律背反)」(経済社会の背負っている宿命)

初めに、今回は、「二項対立と二項両立」について述べていきたいと思います。

ここで、二項対立とは、例えば、男性と女性という両極の性質・属性のうち、(ある時には、)どちらか一方のみの成立を認めるということでした。

※つまりは、"中間と境界を許容しない"という考え方ですね。

対して、二項両立とは、男性と女性の間の性別(もしくは両性)の成立を認めるということでした。

※つまりは、"中間と境界を許容する"という考え方ですね。

さらにここで、経済とは、社会の抱える問題・課題を発見して、人々の持つ潜在的なニーズやウォンツを掘り起こすことで、社会の成長がもたらされるという仕組みや原理のことですが、その動機付けとしては、人々の意識的な進歩や成長を促すということがあって、(結果として、)それに向けた努力によって、社会全体に経済的な豊かさがもたらされるということだと思います。

※少なくとも、わたし(筆者個人)はそう信じています・・・。

ところで、二項対立についてですが、これを経済に適用すると、"(原理的には、)社会は経済的に「進歩・プラス成長」するのか、それとも「退歩・マイナス成長」するのか"の二択しかないということがわかります。

※二項対立では、「中間と境界」(=曖昧な姿勢や立場)に寛容ではないからです。

※これは極めて、西洋的というのか、アメリカやヨーロッパ的なものの考え方でしょう。

二項両立については、「進歩・プラス成長」と「退歩・マイナス成長」の両方が同時に起こる、つまりは、「社会の停滞・ゼロ成長」をするということになります。

※これは、いかにも日本的ではありませんか?・・・。

※"男か女か"、あるいは、"右か左か"の選択で、どっちつかずの状態になるのですから・・・(笑)。

したがって、物事の原理としては、二項対立よりも二項両立のほうが複雑です。なので、西洋は東洋と違って、いたってシンプルな考え方になりますね。

※タオ(=太極図)に見られるように、東洋では単純に二元的なものの考え方はしません。それらの中間の存在を許容して、これを認めていますよね?・・・。

最後に、まとめると、二項対立(=西洋)と二項両立(=東洋)とは、(原理的にいって、)互いに矛盾し合っていて、互いに相容れないということがわかるかと思います。

※しかし、社会とは、常に時代や環境の変化に追いついていかなければならない宿命にあるので、(本来は、)経済社会に「停滞・ゼロ成長」というものはなくて、それは実質的には「退歩・マイナス成長」の方に分類・クラスタリングされなければならないのではないでしょうか?・・・。

※つまりは、「成長率ゼロ」とは、"「マイナスの成長」としてみなされなければならないという"ことですね。

※時代や環境の変化によって、旧来の技術や設備はすぐに劣化・陳腐化してしまうので、積極的に経済活動することで、常に新しい価値を創出しなければならないからです。つまりは、ゼロ成長で経済全体の収支がトントンというのはありえなくて、それは、技術や設備の劣化・陳腐化によって生じる社会全体の価値の減少を考慮していないということです。

※したがって、経済の収支が、プラス面(=収益)とマイナス面(=損失)の間で完全につり合いが取れるのは、"(社会全体が)プラスの成長を遂げている場合だけ"でしょうね。

知識と知恵(無限かつ永久の財産)

初めに、今回は、「知識と知恵」について述べていきたいと思います。

知識と知恵は、一度発見・獲得されたのならば、あとはいくらでも使うことができまし、誰かに壊されたりもしません。

しかし、これが食べ物や一般の財物(=マイカーやマイホーム等)であれば、消費されたり、壊されたりしても、その価値を減らしてしまいます。

※時間の経過による「経年変化(劣化)」でも価値が減ってしまいますね・・・。

それに、この世で形のある財物というのは、人間の知識と知恵から生み出されているのは明白であり、知識と知恵なしにはなにも生産することはできません。

したがって、この世の中では、形のある財物よりも、形のない知識と知恵のほうが、価値があります。

これはいくら使っても減ることはありませんし、壊すこともできません。

特許権著作権と呼ばれるものが、世の中で莫大な利益を生み出すことは、だれの目にも明らかです。

※現在、世界の経済をリード・牽引している名だたる企業(=GAFA等)が、ソフト産業ないしはソフト寄りの産業に属しています。

※"ハードよりもソフトの方に真の価値がある"。このことに、いよいよ日本も気づき始めたのではないでしょうか?・・・。

※厳密には、形のあるもの(=ハード)は有限の存在であるので、価値付けができますが、形のないもの(=ソフト)は無限の存在であるので、(本来、)価値付けができません。

※有限の存在よりも、無限の存在の方が上位であり、かつ、優位であるのはいうまでもありませんが・・・(笑)。

最後に、今後、(世界的に、)ますますハード産業からソフト産業への移行(=産業シフト)が加速していくでしょう。

※「ハードから ソフトへ」というのは、人類全体にとっては、文明のさらなる飛躍となるでしょうね。

※日本はあいかわらず、家電や自動車などのモノづくり(=ハード生産)にしがみついていますけど・・・(笑)。

※もうとっくに、海外(それもアジア勢)に抜かれているんですが・・・(笑)。

※彼らのほうが、より低コストで生産していて、なおかつ安くモノを販売しています。

現状維持(後退の始まり)

初めに、今回は、「現状維持」について述べていきたいと思います。

巷には、「現状維持は 後退の始まりだ」という主張・言説があります。

(答えを先にいってしまえば、)これは、"時代や環境が常に変化している"からです。

時代や環境が変化している以上、現状維持の姿勢では、いずれは後退せざるを得ないのです。

ではなぜ、時代や環境が変化しているのかといえば、この世界や宇宙を形作った神こそが、我々人間に進歩や成長を求めているからでしょうね・・・。

それは、意識的な進歩・成長かもしれませんし、それとも、肉体的な進歩・成長なのかもしれません。

※あるいは、その両方なのかも・・・(笑)。

おそらくは、(神から見れば、)人々が現状維持をしている姿は、さぞ、惰性で現状に甘えたものに映るのでしょう・・・。

だからこそ、時として、"人々をハッとさせる"ような大きな出来事を起こして、人々に意識の改革を迫ってくるのでしょうね・・・。

※天変地異、大きな(それも悲惨な)事故や、(凄惨な)事件などがそれです。

※それはまるで、天上の神が、地上の人々に対して、「問題意識を持て」と言っているようではありませんか・・・。

最後に、"現状維持は後退の始まり"となるのは、"時代や環境が変化している"からだということです。

※神は、人々の堕落した姿や、甘えた姿勢が(さぞ)お嫌いなのでしょう・・・。

究極のタブー(人生の意義や目的とは?)

初めに、今回は、「究極のタブー」について述べていきたいと思います。

ここで、いかなる科学をもってしても、「なぜ人は生まれてくるのか?」「なぜ人は生きていくのか」、はたまた、「なぜ、この世界や宇宙は今ある姿になったのか?」、「なぜ、この世界や宇宙は現にあるのか?」といった問いには答えられません。

なぜならば、科学とは、(どんなものであれ、)物事の過程や文脈について問うことはできても、その起源や発生については問うことができないからです。

したがって、こういった問いに対しては、宗教やスピリチュアルが答えていました。

しかし、それでも人によっては理解できない、あるいは納得できないといったことにもなり得ます。

ですから、この問いに対しては、(筆者個人は、)哲学こそが真剣に答えるべきだと考えます。

※宗教やスピリチュアルは、科学とは正反対な存在で、(どうも)来世的ないしはあの世の話ばかりに偏りがちです・・・。

※たとえば、"今生努力が報われなかったら、来世やあの世でこそ報われる"といった考え方ですね・・・。

ここで、カントについての研究で知られる哲学者の中島義道氏がいっている通り、あくまでも現世的にいえば、いずれは人生は終わって、この世界や宇宙もやがては終焉を迎えます。したがって、それでも人は生きていかなければならないとしたら、人生は虚しいものとなってしまいます。

しかし、人の死後には、意識や霊魂だけの世界が待っているのは、論理的・現実的にいって明白であって、だれもこのことからは逃れられないのですから、現世にだけフォーカスしても仕様がないわけです。

では、宗教やスピリチュアルだけが正しいのかといえば、そうではありません。

宗教やスピリチュアルは、多くの悩める人には一種の救いや慰めにはなるかもしれませんが、この世の現実に対してはあまりにも無力であり、また物事に対する理解も不足しているというのが事実でしょう。

※そういう意味で、(昔から)宗教やスピリチュアルは、"現実逃避に過ぎない"と批判されてきています。

最後に、では、哲学的に人生について考えるとどうなるのかといえば、それは、"いかなる人生も一度限りであって、あの世的な考えに逃避するのではなく、かといってこの世の利益や快楽ばかりを追求するのでもなく、常に自らの頭で考えて、物事の価値や本質を見極めて、これを追求していって、自己の達成や実現を目指す"。あるいは、"物事のバランスを取って、常に自己の快適さや生の充実を求める"といったことでしょうか・・・。

※まあ、簡単にいってしまえば、"わが身の自由を謳歌・堪能する"ことが、なによりも大事ですね・・・(笑)。

※そのためには、"人生の一瞬一瞬にこそ、物事の価値や意義のすべてがある"と信じることですね。

※もうこの時代では、"苦しいことの先に幸福が待っている"という考え方よりは、もうその日のうちに楽しいことをやってしまって、結果、それが幸福につながっているという考え方が主流なのしょう・・・。

物事の選択基準(意思決定のための評価システム)

初めに、今回は、「物事の選択基準」について述べていきたいと思います。

ここで、目の前のリンゴの山の中から、1個だけ選び取るとします。

リンゴを選び取る基準としては、「甘さ&香り」(=味)、「色&形」(=見た目)、「硬さ(≒重さ)&大きさ」(=噛み応え&食べ応え)、はたまた「瑞々しさ」などの基準が考えられますが、そのどれもが重要だとすると、評価の基準はすべて横並びとならざるを得ません。

※これが一番シンプルな「総合評価」の体系です。

※総合評価の仕組みを図示すると、正N多角形をなすレーダチャートとなります。

しかし、現実には、先に述べた基準は、その組み合わせについて相互に関連している場合もあり、なおかつ、選ぶ人それぞれにとっては、これらの基準の間で重み付けが違っていてもよいはずです。

※数式で表せば、「線形一次結合」となりますね。

※相異なる座標上の成分(=ベクトル)をそれぞれの重み付け(=優先度)によって、それらを単一の値にまとめ上げるということです。

※これは、「スコアリング」(=点数化)の基本的な手法です。

※つまるところ、"総合評価とは、「格付け,ランキング」の仕組み・手法"ですね。

最後に、また、万人にとって好ましい重み付けのバランスがあってもよさそうです。

※食事に関する人間の五感の働きについて分析・研究しないとわからないことですが。

※筆者は、料理家でなければ、ましてや生理学者でもないので、この辺りのことはよくわかりませんが・・・(笑)。