情報とデータ(両者の違い)

初めに、今回は、「情報」と「データ」の違いについて述べていきたいと思います。

ここで、情報とは、我々人間が五感を通して、環境から得るものの総称であって、この世界や宇宙が事実の総体だとすると、それを肉体によって感得するものだといえます。

※言い換えれば、(ある種の)「刺激」や「入力」にあたるものです。

ここで、データとは、情報を文字や記号であらわして(=符号の置き換え)、ある形式に落とし込んだもののことです。もっといえば、物事を数値に置き換えて対応させたもののことになります。

※まとめると、"情報→データ"の流れとなります。情報が発生して、それをデータに加工・変換するということです。

※"情報は人間が扱うものであって、データはコンピューターが扱うものである"ということです。

※さらにいえば、データにフロー(=物事の流れ・情報処理の手続きそのもの)やコンテキスト(=文脈やデータの解釈方法)を加えると、「プログラム」となります。

最後に、情報とは、環境から取得されるあるがままの現実だとすると、データとは、それに一定の加工・変換を施したものだといえるでしょう。

※データとは、情報を数量化・形式化したものであるゆえに、電算・機械処理が可能なのです。

意識界(ワンネスの正体)

初めに、今回は、「意識界」について述べていきたいと思います。

ここで、"意識だけの世界はあるのか?"という疑問を呈したいと思います。

答えを先にいってしまえば、それはあります。

なぜならば、我々人間は、自己と他者の間に意識の隔たりを自認・自覚しているからです。

ある人の思いや考えは、(別の人からすれば、)言葉・態度や行動にしてあらわさなければ伝わりません。

したがって、意識界は厳然とあって、"個々人の意識を分け隔てて、意識の境界を定めている"ということです。

でなければ、ある時に自分以外の人の思いや考えが自分の意識の中に入り込んできてしまうことになります。

※想念やテレパシーと呼ばれる現象も現実にはあるのかもしれませんが、ここでは考えないこととします。

※反対に、物理界とは、主に、「物質」「エナジー」「物理法則」からなる世界です。

最後に、意識界とは、"個々人の意識を、(いわば)「区画整理」するための領域"だといえるでしょう。

※意識にも"区画整理が必要"だということは、元来、この地上に生きている人々の意識は地続きのようになっていて、すべての意識は一つだったということがわかりますね。

※これが「ワンネス」と呼ばれるものとなります。

権威主義と前例主義(日本社会の弊害)

初めに、今回は、「日本社会の弊害」について述べていきたいと思います。

日本は今でも(明らかに)権威主義&前例主義に支配されています。

したがって、海外(=特に欧米)からの外圧や進化圧がかからないと目覚めないし動かない。

なんでもかんでも、その時代の権威を持っている人達におもねるし、なんでもかんでも、物事を前例に照らして、今までにない新しい物事にアレルギーを起こす。

※つまるところ、"世の中でなにが言われているか"ではなく、"だれがいっているか"のほうが大事なのですね。

※もっといえば、「横の関係」よりも「縦の関係」が大切。極めて社会全体が軍隊式になっているということです。

※日本の社会組織はつねに上意下達で、「右ならえ」で人々が動く。

バブル崩壊直前まではこの方式・やり方でもよかった。むしろそのほうが適していたのかもしれません。

しかし、時代も環境も変わり、個人が自ら物事について考え、吟味しなければならくなった。

いうなれば、社会全体で、個々の人達が批判的な精神や、批判的な思考を持たなければならくなっているということです。

しかし、日本人は自らの頭で物を考えるのが苦手だし、なによりも感情的になって物事を受け止める。

だから、日本ではなんでも人任せで、個人レベルから法人レベルまで、課題解決のオールインワンのソリューションが求められる。

※「なんでもお世話いたしますよ~」的な商売こそが繁盛するということです(笑)。

教育についていっても、親自らが自分の子供にものを教えるよりは、学習塾に通わせて、そこでなんでも手取り足取り、勉強の仕方を教えてもらおうとします。

※このばあい、学習塾が「権威的な存在」となっているということです。

最後に、昨今、この国は、海外勢、それも同じアジアの国々からも置いてけぼりを食っているようですが、それは突き詰めれば、自らの頭で考えることなく、なんでも教材やテキストに頼って、正解を得ようとする(非常に)安易な生き方が骨身にしみついてしまっているからでしょうね・・・。

※日本が決してアメリカに勝てない理由をいってしまえば、アメリカが自ら課題を発見して解決してゆく「開拓者&天才肌」だとすると、日本はそれに後追いする「追従者&秀才肌」だからです。

※だから、アメリカの「GAFA」や、中国の「BATH」のような先進・革新的な企業や存在は、日本では決して生まれないのでしょうね・・・。

帰納と演繹①(「横」でなく「縦」の関係)

初めに、今回は、『帰納と演繹①(「横」でなく「縦」の関係)』を書いていきたいと思います。

ここで、「帰納(法)」とは、複数の事実を観測して、事実の間にある共通性から、物事の結論を導き出す手法や考え方です。

したがって、既知の事実(=fact)がある場合に威力・効力を発揮します。

※いわゆる「経験則」とは、この帰納から導き出される。

※大雑把にいって、「物事の傾向」を分析する際に用いられる。

※日本人が得意なのが、こちら・・・。

ここで、「演繹(法)」とは、(数学・論理学であれば、)原理と原則などから、物事の結論を導き出す手法や考え方です。

したがって、既知の法則(=law)がある場合に威力・効力を発揮します。

※いわゆる、「三段論法」とは、この演繹から導き出されるもの。

※たとえば、「1+1」の「+」の作用・働きについては自明なので、この場合の結果(≒結論)は「2」である。

※日本人が不得意なのが、こちら・・・。

よく巷では、帰納と演繹は、対照的に捉えられていますが、それはおそらく「横の関係」としてでしょう。

しかし、帰納と演繹は、実際には横の関係ではなく「縦の関係」となっています。

※カントは、この帰納と演繹について統合を図りました。

なぜならば、帰納は、個々の具体的な事実をそのまま取り扱っている(=具象的)なのに対して、演繹は、事前に総合された具体的でない事実を取り扱っている(=抽象的)だからです。

※詳しくいえば、演繹とは「事実を記号化して その記号を操作する」こと。

つまりは、物事の「抽象度」という観点からすれば、帰納が下位にあたって、演繹が上位にあたるという関係となります。

最後に、まとめると、帰納とは「事実に対する処理や操作」であって、演繹とは「記号に対する処理や操作」であるということです。

生命の本質

初めに、今回は、「生命の本質」について述べていきたいと思います。

ここで、『バカの壁』で知られる養老孟司氏は、生命の本質は、自己のDNAを後世に残す(=子供をつくる)ことではないと言っています。

このことを透徹に分析してみると解ることがあります。つまり、我々人間にとって子孫の繁栄や文明の存続を第一としてしまうと、生命という存在は永遠にその活動のループから抜け出せなくなり、終わりのないことになってしまいます。

親が生き、子も生きて、孫も生きる。このことに果たして意味はあるのか?。

答えを言ってしまえば、子孫の繁栄や文明の存続それ自体には、(本質的には)意味はないでしょう・・・(笑)。

なぜならば、生命の糸を連綿と紡いでゆくこと、その永遠とも思える営みに意味を見出そうとしても、この世界や宇宙には終わりのあることが宇宙物理学の観点からは明白ですから・・・。

※「宇宙の熱平衡=エントロピー増大=宇宙の熱的死」と呼ばれていることです。

ここで、人は生きている間に学んで、成長していきます。その過程で多くの知恵や知識を獲得します。もっといえば、お釈迦様のように物事の真理を悟る方もいます。

すなわち、これこそが「生命の本質」なのでしょう。

子孫繁栄や文明存続はあくまでも手段であって、決して目的ではないのです。

※これはよくある"手段を目的と化してしまう"という(厄介な)問題の最たるものです。

※これはこの世の中では、最もナンセンスなことではないでしょうか?・・・(笑)。

最後に、なぜ、人には体が与えられているのか?、また、心が与えられているのか?。

その答えは、「その体や心をつかってなにかを絶えず学び続けなさい」ということなのでしょう・・・。

※わたし(筆者個人)は、これこそが"よく生きる"ということなのだと思います・・・。

不合理と偶然性の正体②(心の中のダイス)

初めに、今回は、「不合理と偶然性」について再度述べていきたいと思います。

ここで、ケーキ職人の前に「双子のタマゴ」があるとします。

この職人はケーキ1個をつくりたいので、卵黄は1個あれば十分ですし、レシピの分量を変えたくない事情があるとします。

※かなりアバウトな設定ですが、ここは目をつむってください・・・(笑)。

このとき、ケーキ職人の目には、この2つの卵黄に(品質や鮮度面での)一切の差異が認められないとします。

とすると、ケーキ職人はどうやってケーキの材料としてつかう卵黄を選ぶのしょうか?。

答えを言ってしまえば、"(心の中で)ダイス(=サイコロ)を振って物事を決める"ということをします。

※これが「乱択の問題」の本質であり、不合理と偶然性の生まれる理由なのです。

つまりは、2つの卵黄のどちらを選んでも結果(=出来上がるケーキの品質)に差異が出ないのならば、どちらを選んでも同じなので、選択に迷ったときはダイスを振るうのですね・・・。

※これが意識(あるいは無意識)の働きであり、現実の問題に対する解決策なのです。

※巷では、選択の問題には「パラレルワールド」の存在がセットで語られますが、選択の結果に有意な差が認められない場合には決して世界は分岐したりはしません。

※なぜならば、世界が分岐するのは、「選択の結果」として、"選択後の現実世界がどのように変化するかに応じて、世界は平行に分岐する"というのがパラレルワールドの本質ですから、結果が同じならば現実世界も同じはずだからです。

※かのアインシュタインは、"神は決してサイコロを振らない"といったそうですが、現実には、選択の問題には必ずダイス(=サイコロ)の存在は欠かせませんし、この現実世界に適応するために、人の意識の中にダイスを振る仕組み(=メカニズム)が組み込まれている、あるいは、これが備わっているといえます。

最後に、以上のことから、「運命」とは、合理的で必然的な選択を積み重ねた結果なのかもしれませんね・・・。

※つまりは、結果に差異を生む選択だけが、この現実世界では「重要な選択」であって、この重要な選択について、"常に理にかなった選択を積み重ねた結果こそが「運命」"なのかもしれません・・・。

※(常識的にいって、)「毎日スーパーで何を選んで買うかの問題」よりも、「どの結婚相手を選ぶかの問題」のほうがはるかに重要でしょうしね・・・(笑)。

※あるいは、この世界や宇宙には、「未来の青写真(=ブループリント)」みたいなものがあって、それは、神の視点から見て、常に合理的で必然的な選択の積み重ねを通してこそ見えるものなのかもしれませんね・・・。

不合理と偶然性の正体①(「乱択」という問題)

初めに、今回は、「不合理と偶然性の正体」について述べていきたいと思います。

ここで、同形・同色・同量・同大のもの、たとえばリンゴの山があるとします。

このリンゴの山を構成している一つ一つのリンゴの間には差異がないものとします。

※現実には、こういった事例はたくさんあります。たとえば、「パソコンなどの家電類(=マスープロダクト)」、「企業から見た顧客の優先度」等・・・。

※すべての条件で横並びの存在というものは現実には沢山ありますね。

これらのリンゴの中から、一つの優良なものを選び取らなければならないとき、これらのリンゴの間で有意な差が認められないばあいには、一体なにを基準にものを選べばよいのでしょうか?・・・。

答えを言えば、それはものを"ランダムに選ばざるを得ない"となります。なぜならば、(この場合には、)リンゴの山の中の一つ一つのリンゴの間には、有意な差は認められないのですから、恣意的かつ無作為に選ばざるを得なくなります。

※これがアトランダムに物事を選択する(=乱択)の問題になります。

このとき、リンゴの山の中にある個々のリンゴの大部分が腐っている、あるいは痛みかけているとすると、その中から優良な品質あるいは鮮度の良いものを選び取るのは非常に簡単ですが、どれもが同じような品質と鮮度であれば、選者は頭を悩ますでしょう・・・。

ここで、(ある種の)「不合理と偶然性」が生まれます。たとえば、すべてのリンゴが品質と鮮度において、優劣の関係が認められる(序列や優先度をつけられる)のならば、それは必然的に選者は合理的な選択が可能となります。

しかし、先述したとおり、そのどれもが変わり映えしないものだったらどうでしょう?。その際には、恣意的かつ無作為に(目をつむるなどして)選ぶしかありませんね。

わたし(筆者個人)は、これが「不合理と偶然性の正体」だと考えます。

現実の(実に)切実な問題を挙げれば、社会での男性グループを構成している男性諸氏が、すべて横並びの存在(=容姿・年齢・身長・体格・年収・学歴・経歴・気質・性格・・・etcの面で似通っている)だとしたら、一体(世の)女性はなにを基準に生涯のパートナーを選べばよいのでしょうか?。

※これは、もう選択に迷って選択を保留するか、いっそ拒絶してしまうかもしれませんね・・・(笑)。

こういった「選択の問題」においては、パートナーを一度決めたその後に何が待っているかを予測・予想するのが難しいがゆえに、選者自身がその選択にどういう意味を持たせるかが大事になってきます。

※つまりは、選択とは「意志の問題」だということもできますね。

※与えられた材料をどう料理するのかは、料理人の腕次第だということです・・・(笑)。

最後に、「不合理と偶然性」とは、"物事を無作為かつ恣意的に選び取る"ということでした。

※すべての物事に序列や優先度をつけられる、あるいは物事の先が見通せるのなら、だれもが(こぞって)合理的で必然的な選択をするでしょう・・・。