この世界や宇宙の起源(その始まり)

初めに、今回とは別の記事『時間の長さ(その始まりと終わり)』でも述べましたが、"時間が永遠に流れている、回っている"とする'永劫回帰'の観念は決定的に間違い・誤りです。

とすれば、この世界や宇宙はあるところで始まった。また、"時間は空間と共に始まっている"、ということです。

ご存じの通り、ビッグバン以前には、空間は(人間の想像を超えるほどの)極小(=原子サイズかそれ以下)だったとされています。当然にして、量子がゆらぐには、時間の存在が欠かせないので、この頃から時間はあったと言えます。空間についても同様に言えます。

※これは、物理学者であるビレンキンの考え・主張です。

※最新の宇宙物理学によれば、(ビッグバン以前には、)'量子のゆらいでいた場'があったとのことですが、それも時間と空間(=時空間)があったればこそのことです。

アインシュタインの唱えた'相対性理論'によれば、時間と空間は一体なので、時間の始まりを以って空間の始まりと言えるでしょう。その逆に、空間の始まりを以って、時間の始まりとも言えます。

※ただし、このことについてより詳細にいえば、今回とは別の記事『時間の存在』で述べた通り、"時間・空間・物体・エネルギー・物理法則、これらが一斉に出揃った瞬間"が、この世界や宇宙の始まりといえるでしょう。

ところで、この世界や宇宙の起源については、二つの大きな説があります。それは、'世界創造説'と'世界発生説'です。

前者についていえば、神(なる者)が、この世界や宇宙を創造したというもので、後者についていえば、この世界や宇宙は(誰の手にもよらずに)自然的に生まれたというものです。

ここで、今回とは別の記事『神の実在証明』でも述べましたが、この世界や宇宙全体の活動を説明するには、世界や宇宙の全体を司る(なんらかの)'意志'がなければなりませんので、(現実には、)"世界創造説のほうが正しい"こととなります。

※我々人間は、それを'神'と呼ぶのでしょう。

※天体・惑星と生物・人間の生まれる確率は、(天文学的に)極めて低い数字となりますので、神(なる者)は、この世界・宇宙の活動に(自らが)関与することで、この確率を(意図的に)操作したのでしょう。

最後に、”無からなにかが生じる”、あるいは”無が有に転じる”。このことに最早疑念はありません。なぜならば、'無'以前に、"この世界や宇宙を生み出すなにか"があったのですから。

※この世界や宇宙の'(予定的な)仕組み・枠組み'とでもいえばいいでしょうか・・・。

時間の長さ(その始まりと終わり)

はじめに、ニーチェの唱えた'永劫回帰'のように、時間が永遠に流れて、回り続けるという発想には致命的な欠陥があります。

それは、現に我々人間は、刻一刻と時間が流れているのを体験および経験しています。

時間が流れるというのは、その全体のプロセスが有限であり、あるところで完結していなければならないということでもあります。

つまりは、時間が無限の系列であったなら、時間の経過自体がありえないということです。

※これは'現在'の観念さえも否定してしまうので、あまりにも致命的なのですが・・・。

したがって、この世界や宇宙の第一原因を追究していく結果として、時間を無限に遡行(無限退行とも言います)していくということはありえません。

必ずや、時間にはその始まりがあるのです。その時が、この世界や宇宙の始まりなのでしょう。

ただしこの反対に、今後、時間が"無限大"に続いてくということを否定する論拠や根拠はどこにもありません。

※最新の宇宙物理学を以てしても、この世界や宇宙の終わる瞬間を特定するには至っていません。

つまりは、"始まりがあって、終わりもある"、という保証ならびに確約はどこにもないということになります。

※無限大とは、そういうものです。無限大とはあくまでも、あるところでは有限であるということと、それが、無限に延伸していくというイメージでいいと思います。くどいようですが、無限大とは常に全体としては有限です。終わりのところを明確に規定していない(=任意としている)というだけのことです。

※ちなみに、"無限"とは異なる観念ですので、(くれぐれも、)お気をつけください。

※今回とは別の記事『神の実在証明』、『主体ならびに客体(主観ならびに客観)』でも述べましたが、この世界や宇宙の歴史ならびに時間がどこまで続いていくのかというと、それは神の意志、あるいは恣意によるでしょう。神がこの世界・宇宙に飽き飽きした時が来たら、その時がこの世界・宇宙の終わりと言っていいでしょう・・・(笑)。

攻守一体(攻防一体)の原理

まずはじめに、”守る”ということについて述べていきたいと思います。

”守る”とは、自己の境界(=自陣)の内側にいる敵を駆逐・排除する動きのことです。

その反対に、”攻める”とは、自己の境界を広げる(=自陣の防衛線を上げる)ことです。

ここで、”自己の境界を広げる”とは、自己の支配の及ぶ領域を広げることに他ならないのです。つまりはこれが、”攻める”ということの要点であり、要件なのです。

先述したことから、”守る”ことと”攻める”こととは、一体の関係にあることがわかります。

では一体なにが、物事を両者に分けるのか。両者の違いについて述べたいと思います。

たとえば、”守る”ということを、(ある適正な基準にもとづいて、)強く行うこと、守ることに積極的に取り組むことが、そのまま、その意味を転じて”攻める”こととなります。

これを、そのまま逆に言えば、”攻める”ということを、(ある適正な基準にもとづいて、)弱く行うこと、攻めることに消極的に取り組むことが、”守る”ということとなります。

巷では、よくスローガンのように聞く「地域をまもろう」とか「仲間をまもろう」という言説がありますが、これは過度に行き過ぎると、他のコミュニティーや、世の中の不特定の人を敵方に仕立てて、相手と敵対するということを意味するようにもなります。

最悪の場合、言葉の暴力や身体的な暴力によって、他のコミュニティーを制圧したり、不特定の人を、自分(達)のいいなりにする(=コントロールする)等の事態となりえます。

大変皮肉な話ですが、これは、物事の原理・原則に従えば、実に自明なことなのです。

自分にとって”大切なものを守ろう”と必死になるあまり、他を省みず、世の中の多くの人々を犠牲にしている、他者を踏みつけにしている、ということも充分にありえます。

つまりは、”守る”こととは”攻める”ことであり、”攻める”こととは”守る”ことである、という絶妙なバランス感覚が必要、あるいは、大切になるということが言えるでしょう。

もしも、これを読んでいる方々が、容赦なく否応なく他者と敵対してしまった時や場合には、敵対している当の相手に対して、こちらが適度な対応をするようにしましょう。

それは、'攻守一体(攻防一体)'の考えや構えであり、それが結果として、相手への適度な'牽制'となり、相手との間には、適度な距離感や緊張感を生み出すことができます。

これにより、相手から一方的に攻められたり、非難を浴びるという事態を避けられます。また同時に、自分自身が同じことを相手に対して行うという事態も避けられます。

※ちなみに、敵対している相手が守りに入っている時や場合に、こちら(=自分自身)が、相手の陣地に攻め込むことは、こちらが、攻めることに'積極的'に取り組むこと(=守ることに消極的に取り組む)こととなり、決定的な一打・出来事ととなるでしょう。

※この逆に、相手が攻めに入っている時や場合に、相手の陣地に攻め込む(=「負けじ」と応戦する)ことは、こちらが、守ることに積極的に取り組むこと(=攻めることに消極的に取り組むこと)となり、これもやはり、決定的な一打・出来事ととなるでしょう。

※お互いに相手の出方をうかがっている、腹の内を探り合っている(=決定的な展開のない)時や場合は、”お互いに牽制し合っている”、ということになるでしょう・・・(笑)。

卵が先か?、親鳥が先か?(通称、ニワタマ論争)

この問題は、長らく一部の方々の間で考えられ続けていて、

哲学や生物学、果ては数学にまで及んでいるそうですが、

わたくしなりに解釈・理解したことを述べさせていただきます。

早速ですが、この問題についてわかりやすくするために、

卵と親鳥についての記述を抽象化して置き換えると、

「XはYに先立って生じて(実在して)、YはXに先立って生じる(実在する)」となります。

(※卵と親鳥のどちらをそれぞれX,Yのどちらに対応させてもよい)。

(※親鳥ももとは卵だったという前提で、当然、卵は親鳥から生じるという前提で)。

賢い方はお気づきのように、この命題は一種の矛盾をきたしています。

この問題は、’循環参照’と呼ばれているそうです。(※出典・参考:Wikipedia)。

このことからわかることは、(一見、摩訶不思議なことですが、)

両者が同時に生じなければ(実在しなければ)ならないということです。

つまりは、卵と親鳥は同時にセットとしてあるということとなります。

これは、どちらかが先にあるというものでもなく、この問題についての初めの設定、

命題に落とし込むまでの仮定そのものが誤りだったということです。

このことは、一見するとトンデモ話とも受け取れます(笑)。

これは一種のジレンマというヤツですかね・・・。

少し話は逸れますが、この問題については生物学の立場(≒進化論)によれば、

東南アジアの森に生息していたセキショクヤケイという鳥の子が突然変異を起こして、

現在の食用のニワトリになったそうで、結論を言えば、”卵が先”となるそうです。

(※これは、あくまでも、現在食用とされている種についてですが・・・)。

ちなみに、ニワトリの種の起源について言及・遡及する場合、

"卵生を獲得する以前の親"をも親鳥とするなら、”親鳥が先”となります。

客観的世界の実在性

初めに、現象学で知られるフッサールなどが論じたように、よく哲学の世界で論じられるのは「客観的世界」は実在するのかということです。

つまりは、我々人間(=地球人類)の意識なく、この世界や宇宙はただ厳然とあるのか、我々人間の意識とは無関係に独立してあるのかということです。

しかし、我々人間の意識なくしては、この世界や宇宙は認識および理解されません。したがって、我々人間がいないことには、この世界・宇宙の実在は証明できません。

※以前上げた記事『卵が先か?、親鳥が先か?』、『二項対立の原理』でも述べさせていただいた通りに、どちらかが先にあって、どちらかが後にある、という類の問題ではないのです。”まずはじめに、その両方が同時にある”、というのが正答・正解なのです。

しかも、我々には、この世界や宇宙に対する共通の認識および理解があり、このことから、この世界・宇宙の実在は確かであり、我々人間同士が(なにかについての)会話をしたり、意思疎通ができたり、なにかの約束や契約も行うことができますから、やはり、この世界・宇宙は実在すると言えます。

※即ち、これが「客観(性)」である。

たとえば、人々がある特定の場所に、特定の時刻で待ち合わせができるのは、この世界や宇宙が厳然とあり、特定の場所が(勝手気ままに)移り変わることもなく、時も正確に流れている限りにおいては、やはり、このことは達成ならびに実現することが可能です。

しかし、ここで問題となるのは、このことがどのような場所であっても、何時いかなる時であってさえも、先のことが達成ならびに実現できるのかというと、それは誰にも保障することはできません。

この世界や宇宙の在り様および在り方が、常に一定であるということについては、我々人間の意識が及ばないからです。

したがって、神の意志、ないしは恣意によって、この世界や宇宙の在り様および在り方が、(突然にして)変わってしまうということも、原理的にはあり得ると言えます。

では、我々人間の持つ認識は間違っている、誤っているのかと言えば、そうではありません。認識は認識として、やはり厳然と機能している、働いています。

まず、主体はその内側に世界(の一部)を写し取り、そこから主観が生じます。

次に、複数の異なる主観同士の間で一致する部分が生じます。それが客観(性)です。

※即ち「客観(性)」=「複数の主観の合計」である。

※法律の世界では、複数の主観の合計が客観(性)と見做されている。

終わりに、(あくまでも)認識論的にいえば、我々の主観の「擦り合わせ」として客観的世界は実在するといえます。

知性と野性

'知性'とは、悟性と理性とを合わせたもの、あるいは、それらの総体です。

ここで、'悟性'とは、応性から引き継いだ概念や観念を統合する機能、あるいは、バラバラの概念・観念をまとめる働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターの頭脳である'CPU(=プロセッサー)'に各種の情報を集約・集結させる'IOコントロ―ラー'がこれに近いです。

'理性'とは、悟性によって統合された概念や観念の群をもとに思考を推進し、推論によって真理を探究する機能、あるいは、この世界や宇宙から物事の真理を導き出す働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターの頭脳である'CPU(=プロセッサー)'がこれに近いです。

'野性'とは、感性と応性とを合わせたもの、あるいは、それらの総体です。

ここで、'感性'とは、我々人間の五感のそれぞれを司って、外部や外界(=世界や宇宙)から各種の情報や情念を取得する機能、あるいは、我々人間と世界・宇宙とを隔てている境界にあり、外部・外界から人間の意識に情報や情念をもたらす働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターへの'各種入力装置に内蔵されている感受機器(=センサー)'といったものがこれに近いです。

'応性'とは、感性から引き継ぎ、人間にとっての外部や外界(=世界や宇宙)からもたらされる情報や情念をもとに、これらを概念や観念に変換する機能、あるいは、情報・情念を概念・観念に対応させて置き換える働きのことです。たとえば、機械で言えば、コンピューターへの'各種入力装置に内蔵されている感受機器(=センサー)に随伴し、これに直接的に接続されているコントローラー'といったものがこれに近いです。

以上は、カントの分析・考察をもとにして、わたしがさらに分析・考察を深めた結果をまとめてみました。

※ちなみに、カントは悟性の内に、感性から引き継いだ情報や情念を、概念や観念に変換する機能、あるいは、情報・情念を概念・観念に対応させて置き換える働きを認めていました。しかし、わたしはこれを一個の独立した機能・働きとして認めて、これを見出しました。わたしは、これに'応性(オウセイもしくはノウセイ)'という名を付けました。

最後に、知性は野性と連携して、野性から受け取った概念や観念を本処理することで、物事についての思考や判断を推進する、論理的に物事を考えて分別する機能や働きを我々人間に提供しているということです。このことから、知性とは極めて理知的なものであり、我々人間にとってはより上位(=ハイレベル)のものです。野性に対しては優位の立場にあります。

野性は知性と連携して、(我々人間にとっての)外部や外界から受け取った情報や情念を下処理することで、物事から感じ取れる印象や感想をもたらしたり、単純に外部・外界からの刺激を感覚に置き換える機能や働きを我々人間に提供しているということです。このことから、野性とは極めて感覚的なもので、我々人間にとってはより下位(=ロウレベル)のものです。知性に対しては劣位の立場にあります。

※やはり、今回とは別に上げた記事『卵が先か?、親鳥が先か?』、『二項対立の原理』でも述べたとおり、どちらかが先で、どちらかが後といった関係ではありません。しかし、"理性の存在こそが、人間が人間たる所以である"、とするならば、理性に軍配が上がります。つまりは、理性が野性に対して優位の立場となり、野性が理性に対して劣位の立場となります。

二項対立の原理①(「男」と「女」の存在規定)

初めに、今回は、「二項対立の原理①(「男」と「女」の存在規定)」について述べていきたいと思います。

ここで、この世界や宇宙には、互いに相反して対置される物事や性質、あるいは概念や観念などがあります。

たとえば、「光と影」「男と女」「酸性とアルカリ性」など・・・。

二項対立するもの同士(=「男」と「女」)の関係について言えば、一方のその性質や概念を定めることは、(その一方を基点として、)他方の性質や概念を参照するという考え方・アプローチだと、「相互参照」や「循環参照」に陥ってしまうので、原理的に不可能な構造、あるいは関係となります。

とすれば、互いに正反対の性質を持つ二者間の関係には、その二者を取り持つ、あるいは、二者を統合するような第三の存在や立場が必要となります。

そこで、「人間」という男と女よりも高次の存在や立場があって、そこを出発地点として男と女についての存在規定がなされているということですね・・・。

※男も女もともに人間であることは明らかですし、このことは、男と女が、互いに(共通して)人間として認識および理解され、グルーピングされているということからもわかりますね・・・。

最後に、したがって、人間社会において「男女同権」が成立したことは、本質的・本来的に言って、正しいこととなります。しかし、時代時代によっては、両者の間に一種の隔たり、つまりは、優位・劣位の関係というものが生じるということもありえます。

しかし、それはコインの表と裏の関係ですから、コインを回転させるか、光をあてる面を変えれば、即座にその関係は逆転してしまうものなのです。

※この意味で、優位・劣位の関係とは、一時的・形式的なものだと言えるのです。