現状維持(後退の始まり)

初めに、今回は、「現状維持」について述べていきたいと思います。

巷には、「現状維持は 後退の始まりだ」という主張・言説があります。

(答えを先にいってしまえば、)これは、"時代や環境が常に変化している"からです。

時代や環境が変化している以上、現状維持の姿勢では、いずれは後退せざるを得ないのです。

ではなぜ、時代や環境が変化しているのかといえば、この世界や宇宙を形作った神こそが、我々人間に進歩や成長を求めているからでしょうね・・・。

それは、意識的な進歩・成長かもしれませんし、それとも、肉体的な進歩・成長なのかもしれません。

※あるいは、その両方なのかも・・・(笑)。

おそらくは、(神から見れば、)人々が現状維持をしている姿は、さぞ、惰性で現状に甘えたものに映るのでしょう・・・。

だからこそ、時として、"人々をハッとさせる"ような大きな出来事を起こして、人々に意識の改革を迫ってくるのでしょうね・・・。

※天変地異、大きな(それも悲惨な)事故や、(凄惨な)事件などがそれです。

※それはまるで、天上の神が、地上の人々に対して、「問題意識を持て」と言っているようではありませんか・・・。

最後に、"現状維持は後退の始まり"となるのは、"時代や環境が変化している"からだということです。

※神は、人々の堕落した姿や、甘えた姿勢が(さぞ)お嫌いなのでしょう・・・。

究極のタブー(人生の意義や目的とは?)

初めに、今回は、「究極のタブー」について述べていきたいと思います。

ここで、いかなる科学をもってしても、「なぜ人は生まれてくるのか?」「なぜ人は生きていくのか」、はたまた、「なぜ、この世界や宇宙は今ある姿になったのか?」、「なぜ、この世界や宇宙は現にあるのか?」といった問いには答えられません。

なぜならば、科学とは、(どんなものであれ、)物事の過程や文脈について問うことはできても、その起源や発生については問うことができないからです。

したがって、こういった問いに対しては、宗教やスピリチュアルが答えていました。

しかし、それでも人によっては理解できない、あるいは納得できないといったことにもなり得ます。

ですから、この問いに対しては、(筆者個人は、)哲学こそが真剣に答えるべきだと考えます。

※宗教やスピリチュアルは、科学とは正反対な存在で、(どうも)来世的ないしはあの世の話ばかりに偏りがちです・・・。

※たとえば、"今生努力が報われなかったら、来世やあの世でこそ報われる"といった考え方ですね・・・。

ここで、カントについての研究で知られる哲学者の中島義道氏がいっている通り、あくまでも現世的にいえば、いずれは人生は終わって、この世界や宇宙もやがては終焉を迎えます。したがって、それでも人は生きていかなければならないとしたら、人生は虚しいものとなってしまいます。

しかし、人の死後には、意識や霊魂だけの世界が待っているのは、論理的・現実的にいって明白であって、だれもこのことからは逃れられないのですから、現世にだけフォーカスしても仕様がないわけです。

では、宗教やスピリチュアルだけが正しいのかといえば、そうではありません。

宗教やスピリチュアルは、多くの悩める人には一種の救いや慰めにはなるかもしれませんが、この世の現実に対してはあまりにも無力であり、また物事に対する理解も不足しているというのが事実でしょう。

※そういう意味で、(昔から)宗教やスピリチュアルは、"現実逃避に過ぎない"と批判されてきています。

最後に、では、哲学的に人生について考えるとどうなるのかといえば、それは、"いかなる人生も一度限りであって、あの世的な考えに逃避するのではなく、かといってこの世の利益や快楽ばかりを追求するのでもなく、常に自らの頭で考えて、物事の価値や本質を見極めて、これを追求していって、自己の達成や実現を目指す"。あるいは、"物事のバランスを取って、常に自己の快適さや生の充実を求める"といったことでしょうか・・・。

※まあ、簡単にいってしまえば、"わが身の自由を謳歌・堪能する"ことが、なによりも大事ですね・・・(笑)。

※そのためには、"人生の一瞬一瞬にこそ、物事の価値や意義のすべてがある"と信じることですね。

※もうこの時代では、"苦しいことの先に幸福が待っている"という考え方よりは、もうその日のうちに楽しいことをやってしまって、結果、それが幸福につながっているという考え方が主流なのしょう・・・。

物事の選択基準(意思決定のための評価システム)

初めに、今回は、「物事の選択基準」について述べていきたいと思います。

ここで、目の前のリンゴの山の中から、1個だけ選び取るとします。

リンゴを選び取る基準としては、「甘さ&香り」(=味)、「色&形」(=見た目)、「硬さ(≒重さ)&大きさ」(=噛み応え&食べ応え)、はたまた「瑞々しさ」などの基準が考えられますが、そのどれもが重要だとすると、評価の基準はすべて横並びとならざるを得ません。

※これが一番シンプルな「総合評価」の体系です。

※総合評価の仕組みを図示すると、正N多角形をなすレーダチャートとなります。

しかし、現実には、先に述べた基準は、その組み合わせについて相互に関連している場合もあり、なおかつ、選ぶ人それぞれにとっては、これらの基準の間で重み付けが違っていてもよいはずです。

※数式で表せば、「線形一次結合」となりますね。

※相異なる座標上の成分(=ベクトル)をそれぞれの重み付け(=優先度)によって、それらを単一の値にまとめ上げるということです。

※これは、「スコアリング」(=点数化)の基本的な手法です。

※つまるところ、"総合評価とは、「格付け,ランキング」の仕組み・手法"ですね。

最後に、また、万人にとって好ましい重み付けのバランスがあってもよさそうです。

※食事に関する人間の五感の働きについて分析・研究しないとわからないことですが。

※筆者は、料理家でなければ、ましてや生理学者でもないので、この辺りのことはよくわかりませんが・・・(笑)。

情報とデータ(両者の違い)

初めに、今回は、「情報」と「データ」の違いについて述べていきたいと思います。

ここで、情報とは、我々人間が五感を通して、環境から得るものの総称であって、この世界や宇宙が事実の総体だとすると、それを肉体によって感得するものだといえます。

※言い換えれば、(ある種の)「刺激」や「入力」にあたるものです。

ここで、データとは、情報を文字や記号であらわして(=符号の置き換え)、ある形式に落とし込んだもののことです。もっといえば、物事を数値に置き換えて対応させたもののことになります。

※まとめると、"情報→データ"の流れとなります。情報が発生して、それをデータに加工・変換するということです。

※"情報は人間が扱うものであって、データはコンピューターが扱うものである"ということです。

※さらにいえば、データにフロー(=物事の流れ・情報処理の手続きそのもの)やコンテキスト(=文脈やデータの解釈方法)を加えると、「プログラム」となります。

最後に、情報とは、環境から取得されるあるがままの現実だとすると、データとは、それに一定の加工・変換を施したものだといえるでしょう。

※データとは、情報を数量化・形式化したものであるゆえに、電算・機械処理が可能なのです。

意識界(ワンネスの正体)

初めに、今回は、「意識界」について述べていきたいと思います。

ここで、"意識だけの世界はあるのか?"という疑問を呈したいと思います。

答えを先にいってしまえば、それはあります。

なぜならば、我々人間は、自己と他者の間に意識の隔たりを自認・自覚しているからです。

ある人の思いや考えは、(別の人からすれば、)言葉・態度や行動にしてあらわさなければ伝わりません。

したがって、意識界は厳然とあって、"個々人の意識を分け隔てて、意識の境界を定めている"ということです。

でなければ、ある時に自分以外の人の思いや考えが自分の意識の中に入り込んできてしまうことになります。

※想念やテレパシーと呼ばれる現象も現実にはあるのかもしれませんが、ここでは考えないこととします。

※反対に、物理界とは、主に、「物質」「エナジー」「物理法則」からなる世界です。

最後に、意識界とは、"個々人の意識を、(いわば)「区画整理」するための領域"だといえるでしょう。

※意識にも"区画整理が必要"だということは、元来、この地上に生きている人々の意識は地続きのようになっていて、すべての意識は一つだったということがわかりますね。

※これが「ワンネス」と呼ばれるものとなります。

権威主義と前例主義(日本社会の弊害)

初めに、今回は、「日本社会の弊害」について述べていきたいと思います。

日本は今でも(明らかに)権威主義&前例主義に支配されています。

したがって、海外(=特に欧米)からの外圧や進化圧がかからないと目覚めないし動かない。

なんでもかんでも、その時代の権威を持っている人達におもねるし、なんでもかんでも、物事を前例に照らして、今までにない新しい物事にアレルギーを起こす。

※つまるところ、"世の中でなにが言われているか"ではなく、"だれがいっているか"のほうが大事なのですね。

※もっといえば、「横の関係」よりも「縦の関係」が大切。極めて社会全体が軍隊式になっているということです。

※日本の社会組織はつねに上意下達で、「右ならえ」で人々が動く。

バブル崩壊直前まではこの方式・やり方でもよかった。むしろそのほうが適していたのかもしれません。

しかし、時代も環境も変わり、個人が自ら物事について考え、吟味しなければならくなった。

いうなれば、社会全体で、個々の人達が批判的な精神や、批判的な思考を持たなければならくなっているということです。

しかし、日本人は自らの頭で物を考えるのが苦手だし、なによりも感情的になって物事を受け止める。

だから、日本ではなんでも人任せで、個人レベルから法人レベルまで、課題解決のオールインワンのソリューションが求められる。

※「なんでもお世話いたしますよ~」的な商売こそが繁盛するということです(笑)。

教育についていっても、親自らが自分の子供にものを教えるよりは、学習塾に通わせて、そこでなんでも手取り足取り、勉強の仕方を教えてもらおうとします。

※このばあい、学習塾が「権威的な存在」となっているということです。

最後に、昨今、この国は、海外勢、それも同じアジアの国々からも置いてけぼりを食っているようですが、それは突き詰めれば、自らの頭で考えることなく、なんでも教材やテキストに頼って、正解を得ようとする(非常に)安易な生き方が骨身にしみついてしまっているからでしょうね・・・。

※日本が決してアメリカに勝てない理由をいってしまえば、アメリカが自ら課題を発見して解決してゆく「開拓者&天才肌」だとすると、日本はそれに後追いする「追従者&秀才肌」だからです。

※だから、アメリカの「GAFA」や、中国の「BATH」のような先進・革新的な企業や存在は、日本では決して生まれないのでしょうね・・・。

帰納と演繹①(「横」でなく「縦」の関係)

初めに、今回は、『帰納と演繹①(「横」でなく「縦」の関係)』を書いていきたいと思います。

ここで、「帰納(法)」とは、複数の事実を観測して、事実の間にある共通性から、物事の結論を導き出す手法や考え方です。

したがって、既知の事実(=fact)がある場合に威力・効力を発揮します。

※いわゆる「経験則」とは、この帰納から導き出される。

※大雑把にいって、「物事の傾向」を分析する際に用いられる。

※日本人が得意なのが、こちら・・・。

ここで、「演繹(法)」とは、(数学・論理学であれば、)原理と原則などから、物事の結論を導き出す手法や考え方です。

したがって、既知の法則(=law)がある場合に威力・効力を発揮します。

※いわゆる、「三段論法」とは、この演繹から導き出されるもの。

※たとえば、「1+1」の「+」の作用・働きについては自明なので、この場合の結果(≒結論)は「2」である。

※日本人が不得意なのが、こちら・・・。

よく巷では、帰納と演繹は、対照的に捉えられていますが、それはおそらく「横の関係」としてでしょう。

しかし、帰納と演繹は、実際には横の関係ではなく「縦の関係」となっています。

※カントは、この帰納と演繹について統合を図りました。

なぜならば、帰納は、個々の具体的な事実をそのまま取り扱っている(=具象的)なのに対して、演繹は、事前に総合された具体的でない事実を取り扱っている(=抽象的)だからです。

※詳しくいえば、演繹とは「事実を記号化して その記号を操作する」こと。

つまりは、物事の「抽象度」という観点からすれば、帰納が下位にあたって、演繹が上位にあたるという関係となります。

最後に、まとめると、帰納とは「事実に対する処理や操作」であって、演繹とは「記号に対する処理や操作」であるということです。