コギト命題の拡張(我自由なり、故に我思う)

初めに、'コギト命題'とは、デカルトが提唱したもので、"(この世界や宇宙における)(あらゆる)物事について考える自分の存在だけは疑い得ない"、というある種の主張ですが、わたし(=筆者)は、これをさらに拡張したいと思います。

まず、コギト命題そのものについて言えば、全くその通りで、今まさに物事について考えている自分の存在(もっと言えば思考や意識)は、疑いなく実存するということです。

わたしは、ここからさらにこの考えを広げたいと思います。

それは、我々人間が、ある物事について考えている、そのことは我々人間の実存や実在を意味しますが、それ以前に、我々人間には自由な意志(=自由意志)が備わっているということです。

つまりは、我々人間は、好きな時に好きなことを想像できるし、考えることができるということで、これ自体、(少なくとも、)物事を考えることについては、我々人間は自由であるということです。

※これは、'内心の自由'とも意味が重なります。

最後に、したがって、デカルトの「我思う、故に我あり」をさらに思考・論理的に遡及すると、「我自由なり、故に我思う」となるのです。

※簡単に言ってしまえば、"(我々人間は、)自由だからこそ、(ある物事について)考えることができる"ということです。

※これでも納得いかない方のために説明させていただきます。わたしの主張の反証となる'自由意志の(全く)ない人間'を想定して見ますと、いかに現実的に不合理なことが導かれることでしょうか・・・。自由意志が(全く)ない人というのは、(少なくとも、)思考・意識に'遊び'が(全く)ない人を指します。この人は、ある種の固定観念や先入観に支配されていて、常にいかなる時でも、'なにか'からの指示や命令を聞いて動き回っている、(ただの)'操り人形'としかいいようがありません・・・。そんな存在を果たして'人間'と呼べるのでしょうか?。

パスカルの言う通りで、"人間は、考える葦"だと思います。

※その'なにか'については、ここでは、(あえて)伏せさせていただきます・・・(笑)。

※これについて言及してしまうと、どうしても、話がスピやオカルトに行ってしまうので・・・(汗)。