有と無(存在と非-存在)

はじめに、ベルクソンは、'無'とは有(=なんらかの存在のあること)の否定だと言いました。さらに、有とは、無になにかを足し合わせることでない、とも言っていますが、これは間違い・誤りです。

ベルクソンは、無とは、それ自身を直接に規定することはできず、無は"有の否定"でこそ得られるため、有よりも複雑な観念であるとも言っています。

ここで、'有(=なんらかの存在のあること)'とは、無の反対であり、無の否定です。つまり、無になにかを足し合わせることが有という観念となります。

逆に、無(=なんらの存在もないこと)とは、有の反対であり、有の否定です。つまり、有からなにかを差し引いていることが無という観念となります。

本来、二項対立上の二者は対等な関係であり、性質的ないし本質的には同じはずです。したがって、ベルクソンの言うとおり、有からなにかを差し引くこと、(あるいは消し去ること)が無だとするのなら、その逆も同様に言えるはずです。つまり、無になにかを足し合わせることが有だということです。

※二項対立については、今回とは別の記事『二項対立の原理』で述べました。

ここで、『二項対立の原理』でも述べましたが、二項対立の上に互いに対立し、相反する二者が「男性」と「女性」の場合、そのどちらもが'人間'にグルーピングされることは自明ですが、これは、一つの'存在状態'と観ることも可能です。

つまり、男性も女性も共に人間であるが、(現実への)その出現の仕方、あるいは性質ないし本質の現れ方(=存在状態)が異なるため、その性差があるということなのです。

この考え方をそのまま、先ほどまでの"有と無"に適用すれば、有と無は共に存在状態が異なりますが、共通の性質ないし本質を持ちます。

ここで、それらの観念よりも一個上の次元から、(それらの観念を)観ることで、我々人間は新たな境地ないし境涯に到達し、新たな観念を獲得できるのではないかと考えます。

それは、'超存在'とも呼ぶべき観念であり、これは、有(≒存在)と無(≒非-存在)の二つの存在状態を併せた、(あるいは統合した)観念です。

※これは、ヘーゲル弁証法をつかって導き出しました。

超存在とは、有(≒存在)と無(≒非-存在)の両方を同時に兼ね備えた観念であり、(ある時には、)有にも無にもなれます。つまり、超存在からすれば、有も無もそれ自身の存在状態の一つに過ぎないこととなるのです。

このことは、無とは、なにかがないことであり、なにかがない状態であるということともなり、これは超存在にとっては、自分自身の性質ないし本質を(いわば)隠した状態ということです。しかし、(確かに)"その存在はある"ということになります。

まとめると、二項対立上では、有と無は本来対等な関係ですが、一個上の次元から見ると、"有のほうが無に対して優越する"、ことともなります。

※仏教の一宗派である'華厳'には、"悪も善の内である"という考え方があります。また、(俗っぽい表現になりますが、)(世の中には、)"「イヤヨ イヤヨ」も好きの内"というのもあります(笑)。

ベルクソンは、有より(むしろ)無のほうが複雑な観念であると考え、これを主張しましたが、(以上のことから、)(わたしは)それは間違い・誤りだと考えます。(先述したとおり、)それは、無より(むしろ)有のほうが複雑な観念だからです。

※ひょっとすると、"なぜ何もないのでなくて、何かがあるのか?"、といった類の存在問題は、有が無に対して優越するということに起因・由来しているのではないでしょうか。これは、ライプニッツが提出した二つの問い、①「なぜ無でなくて有なのか?」、②「なぜ様々な有の中で、この有なのか?」の内の前者①に該当するものです。