二重スリット実験①(量子それ自身との衝突)

初めに、今回は、「二重スリット実験①(量子それ自身との衝突)」について述べていきたいと思います。

「二重スリット実験」とは、かつてヤングが行った実験のことです。

ここで、単一の光子でも、二つの平行するスリットの入った遮蔽板を通すと、その先にあるスクリーンに干渉縞ができます。

※日本の企業である浜松ホトニクスが行った実験でも明らかとなりました。

光子は装置により発射された際の向き・角度によって概ねその軌道が決定します。

しかし、実際には、その軌道に沿いながらも、その軌道を中心としながら、その軌道からいくつもの別々の軌道が分かれ出て、その数を増えしていきます。

なぜならば、光子の運動状態に「量子効果」が働くからです。

つまりは、光子の存在状態は確率的にしか決定できなくなり、光子はその存在確率に従って、いくつもの場所に同時に存在することとなります。

※量子とは、ミクロの世界の存在であり、その存在が確率的にしか決定できないものであり、「同時にいくつもの場所に現れるもの」といえますね。

※「同時にいくつもの場所に現れる」とは、「複数の世界線を描く存在」だということです。

したがって、光子や電子などは、空間中にある時、大まかな軌道に沿って移動しながらも、自分自身の世界線が重なったり、隣り合う箇所では「自分自身と衝突する」ことで、その軌道を微妙に変えたり、軌道を増やしながら移動・運動するので、結果として、スクリーンに干渉縞ができるということになります。

※これは、テイラーの解釈です。

※電子を用いた実験でも、同じ現象が起こります。

※量子効果が働くときは、光子や電子は「波動」としてあるということです。

※光子には質量がなく、その逆に、電子にはわずかながら質量がありますが、極めて軽微であるせいか、やはり、電子の移動・運動にも量子効果が働きますね。

時間の存在③(その謎と本質)

初めに、今回は、「時間の存在③(その謎と本質)」について述べていきたいと思います。

ここで、この宇宙の時間(≒時計)は、(大きく分けて)二つあるのでした。

それは、「絶対時間(≒絶対時計)」と「相対時間(≒相対時計)」です。

この宇宙の始まりには、前者の「絶対時間(≒絶対時計)」だけがあったはずです。

なぜならば、この宇宙の初期(=インフレーションやビッグバンの起った時期)には、宇宙は人間の想像を超えるほどの超高温・超高密度な状態で、その重力場は非常に安定していたものと思われるからです。

※しかも、初期の宇宙の大きさは、「点に近いもの(=極小の空間)」だったとか・・・。

したがって、その宇宙に流れる時間は単一の絶対的な時間であったはずなのです。

それが、インフレーションやビッグバンが起こったことによって、宇宙の内側にエナジーや質量の偏りが発生しました。

※正確には、「特異点の問題」を回避しなければならないために、この宇宙では初めからインフレーションやビッグバンが起こっていたと考えるほうが自然で妥当です。

※つまりは、筆者個人は、この宇宙は、「(完全な)無から生じた」とか、「量子揺らぎから始まった」のではなくて、その初めから「(ある程度の)有だった」と考えます。

※もしも、以前書いてアップした記事の内容と齟齬や矛盾があったらゴメンなさい(笑)。

これにより、宇宙全体の安定していた重力場が乱れて、宇宙の各所・各領域において、その重力の強さや加速度の大きさに応じる格好で、その場に固有の時間(≒時計)が発生したのでしょうね。

これが、「相対時間(≒相対時計)」なのですね。

さらに、この宇宙はいずれ「熱的平衡(=熱的死)」の状態となり、あらゆる生命や星々は無残にも散り散りとなって(=宇宙全体の物質密度が極めて均一で希薄となって)、宇宙にあるあらゆる物質や物体の運動が(ほとんど)意味をなさなくなることが分かっています。

ここで、時間は有限であるので、いずれは宇宙の時間は止まってしまうのでしょうが、恐らくは、この宇宙は、この熱的平衡の状態に達したときにその進行を止めてしまうのでしょう・・・。

※時間が有限でなければ(=無限であれば)、「時間の経過」や「現在という観念」さえも成り立たなくなってしまいますから・・・。

最後に、したがって、宇宙全体の時間(=絶対時間)というものは確かにあるのでしょうね。それは、宇宙全体の時間に限りがある(=寿命がある)ということは、いくら個々の場所や領域に寿命が残されていても、「(全体としては)死に至っている」といえるからです。

※例えば、人間の死になぞらえていえば、個々の臓器が機能していても、脳そのものが機能停止していれば、「その人間は死亡している」と見なすのに似ていますね・・・。

時間の存在②(その謎と本質)

初めに、今回は、「時間の存在②(その謎と本質)」について述べていきたいと思います。

ここで、時間とは、物体の運動を抜きにしては語れない、定義できないのでした。

さらに、物体の運動を司る法則とは、星々の配置(=銀河や銀河団の構造)を決定するために要請されるものだといえますし、星々の配置はそのままこの宇宙の空間の状態(≒様態)となります。

※「宇宙の空間の状態(≒様態)」とは、例えば、この宇宙の空間を一つのキャンヴァスに見立てると、宇宙の星々の存在は、そのキャンヴァスに描かれたものとなりますね。つまり、それが(ほぼ)そのまま「状態(≒様態)」となるということです。

ここで、例えを用いて、この宇宙を支配する法則について説明していきます。

たとえば、水槽にインクを垂らすと、そのインクは複雑な動きをしながらも、最終的には水槽全体に薄く広がり、水槽の中の水を染め上げます。

つまりは、水槽の最初の状態(=水とインクが完全に分離している状態)から、最後の状態(=水にインクが溶け合っている状態)までの過程が法則によって導き出される、決定されるということです。

では、時間とは何なのかと改めて問いたいと思います。

巷では、時間とは、絶対的であるとか相対的であるとか言われていますが、やはり、今までの人間の時間についての認識や理解が不足しているように思われますね。

というのも、先述したこの宇宙の法則は、宇宙全体の時間が不連続であるという(=この宇宙の状態とはゲームや映画のようにコマ割りで作られるという)前提の上に成り立っています。

※時空(=時間と空間の合成体)には最小のサイズがあって、その細部には仕切りのようなものがあります。したがって、時空とはコマ割りで不連続なものといえますね。

つまりは、この宇宙を支配する法則とは、ある一つの宇宙の空間の状態を決定すると(=宇宙の一コマを描き切ると)、続けて、次の状態を決定しようと(=次のコマを描こうと)働くのですね。

これは、この宇宙の法則が、(少なくとも、)「我々人間が知覚し得る時間」を生み出しているということになります。

※「宇宙の法則」>「宇宙の(人間の知覚し得る)時間」という関係となります。

※この宇宙の法則が、宇宙のあまねく星々の配置や形状を(物理的な計算に基づいて、)一つ残らず決定し尽くす。すると、宇宙全体が次の瞬間(=次の一コマ)に遷移するということであり、「我々人間の知覚しえる時間」とは、その一コマを単位とする時間であるということです。

したがって、宇宙全体として時間は「絶対的」な存在だといえますね。

しかし、アインシュタイン相対性理論に基づけば、この宇宙の各所・各領域の時間は、それぞれに独立で、その固有の重力や加速度に応じてテンポ(=進行の度合い・具合い)が変化するとされています。

では結局のところ、時間とは「絶対的」なのか、それとも「相対的」なのか?。「そのどちらが正しいのか?」という疑問に行きつきます。

結論を先に言いますと、そのどちらもが正しいです。

なぜならば、宇宙全体としては絶対的な時間で進行していて、宇宙の各所・各領域は相対的な時間で進行しているからだと言えるからです。

つまりは、この宇宙全体にはまず一つの絶対的な時間(=他のすべての基準となる時計)があって、次に、宇宙の各所・各領域に無数の相対的な時間(=基準となる時計に基づいて動く各々の時計)があるということになります。

※前者を「絶対時間(≒絶対時計)」として、後者を「相対時間(≒相対時計)」とします。

※相対時間(≒相対時計)は、絶対時間(≒絶対時計)を常に参照していて、宇宙の各所・各領域に及ぶ重力や加速度の強さに応じて、絶対時間(≒絶対時計)に対する比で、そのテンポが決定されるということです。

※「絶対時間(≒絶対時計)」>「相対時間(≒相対時計)」という関係となります。

最後に、この宇宙には(大きく分けると)二つの時間(=時計)があって、それは「絶対時間(≒絶対時計)」と「相対時間(≒相対時計)」であり、後者が前者を常に参照しているということです。

※この宇宙をマクロ的な視点で見ると「絶対的な時間が流れている」となり、ミクロ的な視点で見ると「相対的な時間が流れている」となりますね・・・。

悪魔の証明(その困難さ)

初めに、今回は、「悪魔の証明(その困難さ)」について述べていきたいと思います。

ここで、「悪魔の証明」の一例を挙げてみます。

たとえば、世の中には、「白いカラスもいる」というものです。

もしも、世の中に白いカラスが一匹でもいたら、「カラスはすべて黒い」という全称命題は崩れます。

この証明では、(地球上に生息している)カラスの内、たった一匹でも「白い個体(=アルビノ)」を見つけられたら、証明は完了です。

しかし、人間がたまたま白いカラスに遭遇、あるいは、これを目撃する確率は極めて低いので、徹底して大規模な捜索・探索をしない限り、証明はできません。

ですが、地球上のすべてのカラスの全数調査ができない限りは、(原理上では、)この証明は終わりません。

※たまたまでも、たった一匹の白いカラスを発見できればよいのですが、よほど運がよくない限り、見つけることは至難の業といえます。

終わりに、しかし、この証明は決して不可能というものではなく、その本質は、確率的に難しい(=極めて低い生起確率の事象を発見しなければならないという困難さがつきまとう)ということになりますね。

※あるいは、カラスのDNAを操作して、意図的に(あくまでも、人工的な)「白いカラス」を作り出すことができれば、それでも証明は完了します。

※つまりは、自然界に偶然に発生した個体を、人間が偶然に発見するということの困難さをクリアしてしまうということです。

※この方法は、実に「演繹的」といえますね。

※ただし、元の命題が「自然界にいるカラス(=野生の個体)は、そのすべてが黒いか?」であれば、この方法は無効ですが・・・。

人間の道具的使用(他人を利用するということ)

初めに、今回は、「人間の道具的使用(他人を利用するということ)」について述べていきたいと思います。

ここで、ある人には利用する価値があって、他人から利用されることがあります。

しかし、利用価値があることもさることながら、明らかに、利用する側からすれば、他人の存在を(自らの目的を果たしたり、欲求を解消するための)「道具として見ている」からこそ、利用される側の人を内心で見下しているのです。

※道具的存在とそれを行使する存在でいえば、後者のほうが優位にあるのは明白です。

このことから、他人を利用する人達というのは、(主には、)相手の資質・能力・適正、あるいは才覚などを認めた上で、利用しようと近づくわけです。

※つまりは、これが人を利用する側の心理であり、人が利用されるメカニズムだといえますね。

※ほかには、相手の持っている時間やお金なども利用される価値として挙げられます。

(利用する側の人達というのは、)相手にあって自分にはないものを(ほぼ無意識に)認めており、相手の意識に対して、自己への従属を迫っているともいえます。

つまりは、(勝手に、)相手の意識の中に入り込んで、相手の心に卑屈な気持ちや後ろめたい気持ちを植え付けておくことで、より相手を支配しやすくなり、同時に、相手の持っている価値を利用しやすい状態にするのです。

※ほかには、(先だって相手を利用する前に、)相手からの好意や好感を集めておくということも(十二分に)考えられます(笑)。

終わりに、これこそが、「人間の道具的使用」なのです。(はっきり言っておきますが、)利用する側の人達は非常に巧妙にこれらのことを仕掛けてきます。彼らの本質は、(どこまでいっても、)邪ま(ヨコシマ)であり、「力の伴わない卑怯者」だということです。

※「力の伴わない卑怯者」とは、自己の資質や才覚に目覚めて、これを育成する努力(何に付けても実力)がないにもかかわらず、身の丈に合わない(贅沢な)暮らしや、世間からの賞賛を求める「非常に浅ましく、卑しい根性」が丸出しだという程度の意味合いです(笑)。

相手の話をはぐらかす手法(話の論点をズラすということ)

初めに、今回は、「相手の話をはぐらかす手法(話の論点をズラすということ)」について述べていきたいと思います。

ここで、(世の中には、)(真剣な議論の場で、)相手が話をしている際に、相手の話をはぐらかす人がいますが、なぜそのようなことをしてくるのでしょうか?。

これはより具体的に言えば、「話の論点をズラす」ということです。

※その場限りのたとえ話をつかって、議論に臨んでいる相手を煙に巻いたりするのも多く使われる手法です。

筆者個人は、人の話をはぐらかすということが、(世の中では、)ほとんど無意識に行われているように感じます。

(ちょっとキツイ言い方かもしれませんが、)まともに議論をすると負けてしまう立場の人達が、(ほとんど)無意識に(矮小な)自我を守らんがために、相手の話をはぐらかすという手をつかうことで、自我をなんとか保っているように見えます。

※筆者個人の経験上、「社会的に立場の高い人」「責任の重たい職位にいる人」にこそ、この傾向が強いように感じます。

※それもそのはずで、彼らは、自分が議論の場でコテンパンにやられたら、自分の立場や信頼感が弱まったり、薄れてしまって、今ある地位や名声を失ってしまうと思い込んでいるからです。

※当人の自覚していない無意識領域において、もうすでに勝敗が決している(=自分の敗北が濃厚であるということ)ので、それをなんとかその場しのぎで誤魔化して、自信を喪失しないように自我が働いているという見方ができます。

※この意識の働きは「防衛機制」にも通じます。

終わりに、自らの知力や知性をもって、議論に臨む自信があるのならば、わざわざ相手の話をはぐらかすようなことはしないということですね。

※仮にも、当人が平和主義者でハッキリとした物言いを避けているとしても、時には、相手に面と向かって直接になにかを言わなければならない場面があるかと思います。したがって、彼らはそれを自らの責任問題に発展するかもしれないと恐れているのです。

※相手を傷付けまいとしているのにしても、表現や言い方の問題で解決できるのに、それができないのですから、(酷な言い方かもしれませんが、)当人の知力や知性が不足している事実に変わりありません・・・。

※(よくわからない)たとえ話を使ったり、(やたらめったらと)感情論を振り回すのは、当人が「無能」である証です(笑)。

※(これは持論ですが、)人間が人間であるためには、当人に誠実さや実直さが求めらると考えます。つまりは、(どこまでも)(真摯に)相手と向き合うこと、そのために(対話に必要な)自らの知力や知性に(日頃から)磨きをかけておかなければならないということです。

人はなぜ生まれてくるのか?(汎神論とモナド論の合せ技)

初めに、今回は、「人はなぜ生まれてくるのか?(汎神論とモナド論の合せ技)」について述べていきたいと思います。

ここで、現代の科学(=宇宙物理学)は、この世界や宇宙の起源にだいぶ迫っていますが、それでもなお、この世界や宇宙がなぜ生まれたのかについては答えを出せていません。

※というよりは、本来、「科学」というものは、そういうものなのでしょう。

※つまりは、科学というのは、「物事の過程や文脈について問う」ことしかできないからでしょう。

したがって、科学に代わって、宗教やスピリチュアル界隈が、この問いに対して、(ある意味、)真摯に向き合ってきたといえますが、本来ならば、哲学こそが、この問いに一定の答えを提示するべきだと筆者個人は考えます。

※「神はいるのか」とか、「人はなぜ生きるのか」といった問いですね。

※これは一般に、「形而上学」と呼ばれています。

科学に対して宗教やスピリチュアルでは、開祖や教祖の個人的な思想や価値観が全面に出ているので、これを一般社会の共通了解としてみなすことは大変に難しい。

※これは、特定の国家や社会全体が、特定の宗教や信仰に依拠・依存することにもなりますし・・・。

※欧米などのキリスト教圏では、それが成功しているといえますが・・・。

筆者個人は、物事を究極的なまでに思考し、(あくまでも、)論理的な積み重ねをすることによってこそ、答えを出すべきだと思いますが・・・。

※ちなみに、キリスト教では宗派にもよると思いますが、現世に生きている人々は、「労働という苦役を課せられている」とか、「地上のあらゆる不幸・災難は、人間に与えられた罰」だと考えますね。つまりは、キリスト教の神は、楽園を追放された人間を嫌っているということですね・・・。

※日本の教派神道を代表する天理教では、「陽気暮らし」という考え方があって、これは、人間が地上で楽しく暮らしている様子を天上の神が見て喜ぶというものです。

※昨今のスピリチュアル界隈では、人類にとっての地上天国や黄金の理想郷である「ミロクの世」の到来を告げたり、しきりに「カルマの法則」を挙げて、世の中のすべての出来事のすべては「因果応報」「自業自得」だとかいっている方が多く見受けられます。

しかし、これらは、どれもが教祖や開祖の個人的な思想や価値観の域を出ないもので、だれもが理解・納得できるものとはいい難いでしょう・・・。

そこで、このことについて哲学的に考えるとはどういうことでしょうか?。

スピノザは、「この世のすべての存在は神の一部である」と考えたし、デカルトは、「この世のすべての存在(=特に人)は、(生来的に)世の中全体の調和・発展を受け持つもの」として考えました。

※ちなみに、筆者個人は、「スピノザの汎神論」や「デカルトモナド論」がしっくりきます。

ここで、スピノザデカルトの哲学を併せて援用すると、面白い結論を導くことができます。

それは、①「この世のすべての単一の存在(=モナド)は、神を源流・源泉としている」ということと、②「この世のすべての単一の存在(=モナド)は、この世の調和・発展に寄与するべく仕組まれている」ということです。

以上の①②からわかることは、この世のすべての人は、それぞれに使命や天命を与えられているということですね。これは、個人の適正や才能は、あらかじめプログラミングされているともいえます。

※個人の一生を左右する運命や運勢も仕組まれているということになりますが・・・。

結局、なにが言いたいのかというと、「各人が、(時々に)望むままを行う」というのが一つの真理であり、神の意志であり意図でもあるということになります。

※日本を代表するコミック『剣風伝奇ベルセルク』でも出てきますね。

筆者個人なりに考えてみましたが、「両親が愛し合ったから、今ここに自分がいる」とか、「その人の存在が社会から要請されたから」という程度の答えしか出せませんでした・・・(笑)。

最後に、つまりは、我々人間にできるのは、「この世で起こった出来事に対しては、常に後付けで意味を与える」ことだけです。それがいつの間にか、神なる者の意向に沿う形になっているという結果論こそが、この世界や宇宙を貫く真理なのでしょうね・・・。

※たとえば、「仕事の後のビールが美味しい」とか、「家族団欒の時間がいい」とか、そういった個々人の純粋な願望や欲求に従って生きるのが(我々人間にとっては、)自然体であり、いちばんいい形だといえます。

※では、犯罪者や愉快犯についてはどうかといえば、それは「神のみぞ知る」ところでしょうね・・・(笑)。