悪魔の証明(その困難さ)

初めに、今回は、「悪魔の証明(その困難さ)」について述べていきたいと思います。

ここで、「悪魔の証明」の一例を挙げてみます。

たとえば、世の中には、「白いカラスもいる」というものです。

もしも、世の中に白いカラスが一匹でもいたら、「カラスはすべて黒い」という全称命題は崩れます。

この証明では、(地球上に生息している)カラスの内、たった一匹でも「白い個体(=アルビノ)」を見つけられたら、証明は完了です。

しかし、人間がたまたま白いカラスに遭遇、あるいは、これを目撃する確率は極めて低いので、徹底して大規模な捜索・探索をしない限り、証明はできません。

ですが、地球上のすべてのカラスの全数調査ができない限りは、(原理上では、)この証明は終わりません。

※たまたまでも、たった一匹の白いカラスを発見できればよいのですが、よほど運がよくない限り、見つけることは至難の業といえます。

終わりに、しかし、この証明は決して不可能というものではなく、その本質は、確率的に難しい(=極めて低い生起確率の事象を発見しなければならないという困難さがつきまとう)ということになりますね。

※あるいは、カラスのDNAを操作して、意図的に(あくまでも、人工的な)「白いカラス」を作り出すことができれば、それでも証明は完了します。

※つまりは、自然界に偶然に発生した個体を、人間が偶然に発見するということの困難さをクリアしてしまうということです。

※この方法は、実に「演繹的」といえますね。

※ただし、元の命題が「自然界にいるカラス(=野生の個体)は、そのすべてが黒いか?」であれば、この方法は無効ですが・・・。

人間の道具的使用(他人を利用するということ)

初めに、今回は、「人間の道具的使用(他人を利用するということ)」について述べていきたいと思います。

ここで、ある人には利用する価値があって、他人から利用されることがあります。

しかし、利用価値があることもさることながら、明らかに、利用する側からすれば、他人の存在を(自らの目的を果たしたり、欲求を解消するための)「道具として見ている」からこそ、利用される側の人を内心で見下しているのです。

※道具的存在とそれを行使する存在でいえば、後者のほうが優位にあるのは明白です。

このことから、他人を利用する人達というのは、(主には、)相手の資質・能力・適正、あるいは才覚などを認めた上で、利用しようと近づくわけです。

※つまりは、これが人を利用する側の心理であり、人が利用されるメカニズムだといえますね。

※ほかには、相手の持っている時間やお金なども利用される価値として挙げられます。

(利用する側の人達というのは、)相手にあって自分にはないものを(ほぼ無意識に)認めており、相手の意識に対して、自己への従属を迫っているともいえます。

つまりは、(勝手に、)相手の意識の中に入り込んで、相手の心に卑屈な気持ちや後ろめたい気持ちを植え付けておくことで、より相手を支配しやすくなり、同時に、相手の持っている価値を利用しやすい状態にするのです。

※ほかには、(先だって相手を利用する前に、)相手からの好意や好感を集めておくということも(十二分に)考えられます(笑)。

終わりに、これこそが、「人間の道具的使用」なのです。(はっきり言っておきますが、)利用する側の人達は非常に巧妙にこれらのことを仕掛けてきます。彼らの本質は、(どこまでいっても、)邪ま(ヨコシマ)であり、「力の伴わない卑怯者」だということです。

※「力の伴わない卑怯者」とは、自己の資質や才覚に目覚めて、これを育成する努力(何に付けても実力)がないにもかかわらず、身の丈に合わない(贅沢な)暮らしや、世間からの賞賛を求める「非常に浅ましく、卑しい根性」が丸出しだという程度の意味合いです(笑)。

相手の話をはぐらかす手法(話の論点をズラすということ)

初めに、今回は、「相手の話をはぐらかす手法(話の論点をズラすということ)」について述べていきたいと思います。

ここで、(世の中には、)(真剣な議論の場で、)相手が話をしている際に、相手の話をはぐらかす人がいますが、なぜそのようなことをしてくるのでしょうか?。

これはより具体的に言えば、「話の論点をズラす」ということです。

※その場限りのたとえ話をつかって、議論に臨んでいる相手を煙に巻いたりするのも多く使われる手法です。

筆者個人は、人の話をはぐらかすということが、(世の中では、)ほとんど無意識に行われているように感じます。

(ちょっとキツイ言い方かもしれませんが、)まともに議論をすると負けてしまう立場の人達が、(ほとんど)無意識に(矮小な)自我を守らんがために、相手の話をはぐらかすという手をつかうことで、自我をなんとか保っているように見えます。

※筆者個人の経験上、「社会的に立場の高い人」「責任の重たい職位にいる人」にこそ、この傾向が強いように感じます。

※それもそのはずで、彼らは、自分が議論の場でコテンパンにやられたら、自分の立場や信頼感が弱まったり、薄れてしまって、今ある地位や名声を失ってしまうと思い込んでいるからです。

※当人の自覚していない無意識領域において、もうすでに勝敗が決している(=自分の敗北が濃厚であるということ)ので、それをなんとかその場しのぎで誤魔化して、自信を喪失しないように自我が働いているという見方ができます。

※この意識の働きは「防衛機制」にも通じます。

終わりに、自らの知力や知性をもって、議論に臨む自信があるのならば、わざわざ相手の話をはぐらかすようなことはしないということですね。

※仮にも、当人が平和主義者でハッキリとした物言いを避けているとしても、時には、相手に面と向かって直接になにかを言わなければならない場面があるかと思います。したがって、彼らはそれを自らの責任問題に発展するかもしれないと恐れているのです。

※相手を傷付けまいとしているのにしても、表現や言い方の問題で解決できるのに、それができないのですから、(酷な言い方かもしれませんが、)当人の知力や知性が不足している事実に変わりありません・・・。

※(よくわからない)たとえ話を使ったり、(やたらめったらと)感情論を振り回すのは、当人が「無能」である証です(笑)。

※(これは持論ですが、)人間が人間であるためには、当人に誠実さや実直さが求めらると考えます。つまりは、(どこまでも)(真摯に)相手と向き合うこと、そのために(対話に必要な)自らの知力や知性に(日頃から)磨きをかけておかなければならないということです。

人はなぜ生まれてくるのか?(汎神論とモナド論の合せ技)

初めに、今回は、「人はなぜ生まれてくるのか?(汎神論とモナド論の合せ技)」について述べていきたいと思います。

ここで、現代の科学(=宇宙物理学)は、この世界や宇宙の起源にだいぶ迫っていますが、それでもなお、この世界や宇宙がなぜ生まれたのかについては答えを出せていません。

※というよりは、本来、「科学」というものは、そういうものなのでしょう。

※つまりは、科学というのは、「物事の過程や文脈について問う」ことしかできないからでしょう。

したがって、科学に代わって、宗教やスピリチュアル界隈が、この問いに対して、(ある意味、)真摯に向き合ってきたといえますが、本来ならば、哲学こそが、この問いに一定の答えを提示するべきだと筆者個人は考えます。

※「神はいるのか」とか、「人はなぜ生きるのか」といった問いですね。

※これは一般に、「形而上学」と呼ばれています。

科学に対して宗教やスピリチュアルでは、開祖や教祖の個人的な思想や価値観が全面に出ているので、これを一般社会の共通了解としてみなすことは大変に難しい。

※これは、特定の国家や社会全体が、特定の宗教や信仰に依拠・依存することにもなりますし・・・。

※欧米などのキリスト教圏では、それが成功しているといえますが・・・。

筆者個人は、物事を究極的なまでに思考し、(あくまでも、)論理的な積み重ねをすることによってこそ、答えを出すべきだと思いますが・・・。

※ちなみに、キリスト教では宗派にもよると思いますが、現世に生きている人々は、「労働という苦役を課せられている」とか、「地上のあらゆる不幸・災難は、人間に与えられた罰」だと考えますね。つまりは、キリスト教の神は、楽園を追放された人間を嫌っているということですね・・・。

※日本の教派神道を代表する天理教では、「陽気暮らし」という考え方があって、これは、人間が地上で楽しく暮らしている様子を天上の神が見て喜ぶというものです。

※昨今のスピリチュアル界隈では、人類にとっての地上天国や黄金の理想郷である「ミロクの世」の到来を告げたり、しきりに「カルマの法則」を挙げて、世の中のすべての出来事のすべては「因果応報」「自業自得」だとかいっている方が多く見受けられます。

しかし、これらは、どれもが教祖や開祖の個人的な思想や価値観の域を出ないもので、だれもが理解・納得できるものとはいい難いでしょう・・・。

そこで、このことについて哲学的に考えるとはどういうことでしょうか?。

スピノザは、「この世のすべての存在は神の一部である」と考えたし、デカルトは、「この世のすべての存在(=特に人)は、(生来的に)世の中全体の調和・発展を受け持つもの」として考えました。

※ちなみに、筆者個人は、「スピノザの汎神論」や「デカルトモナド論」がしっくりきます。

ここで、スピノザデカルトの哲学を併せて援用すると、面白い結論を導くことができます。

それは、①「この世のすべての単一の存在(=モナド)は、神を源流・源泉としている」ということと、②「この世のすべての単一の存在(=モナド)は、この世の調和・発展に寄与するべく仕組まれている」ということです。

以上の①②からわかることは、この世のすべての人は、それぞれに使命や天命を与えられているということですね。これは、個人の適正や才能は、あらかじめプログラミングされているともいえます。

※個人の一生を左右する運命や運勢も仕組まれているということになりますが・・・。

結局、なにが言いたいのかというと、「各人が、(時々に)望むままを行う」というのが一つの真理であり、神の意志であり意図でもあるということになります。

※日本を代表するコミック『剣風伝奇ベルセルク』でも出てきますね。

筆者個人なりに考えてみましたが、「両親が愛し合ったから、今ここに自分がいる」とか、「その人の存在が社会から要請されたから」という程度の答えしか出せませんでした・・・(笑)。

最後に、つまりは、我々人間にできるのは、「この世で起こった出来事に対しては、常に後付けで意味を与える」ことだけです。それがいつの間にか、神なる者の意向に沿う形になっているという結果論こそが、この世界や宇宙を貫く真理なのでしょうね・・・。

※たとえば、「仕事の後のビールが美味しい」とか、「家族団欒の時間がいい」とか、そういった個々人の純粋な願望や欲求に従って生きるのが(我々人間にとっては、)自然体であり、いちばんいい形だといえます。

※では、犯罪者や愉快犯についてはどうかといえば、それは「神のみぞ知る」ところでしょうね・・・(笑)。

集合の本質(宗教学と経営学と情報学を貫く論理)

初めに、今回は、「集合の本質(宗教学と経営学と情報学を貫く論理)」について述べていきたいと思います。

ここで、日本の神話にあるように、日本の最高神(=皇祖神という意味合いでの「最高」)は「アマテラス」と呼ばれる「太陽を司る神」ですが、日本の神話に限らず、世界中の神話には、この世界や宇宙の物事を人格化したり神格化した例が多く見られます。

※これは、この世界や宇宙における(星や天体などの)存在や、その働きを細かく分けて、それぞれに「神名(カミナ)を配する」という考え方です。

※この世界や宇宙の原初の神のことを「アメノミナカヌシ」と呼ぶそうです。

※この考え方は、日本の教派神道を代表する「天理教」に顕著に表れています。

天理教では、人体の各機能や働きを「皮ツナギ(=皮膚)」「骨ツッパリ(=骨格)」などと言い、人体の各機能や働きを司る神々がいて、人間を(生理的・生物学的な意味で)守護していると考えていますね。

ここで、会社などの人間組織では、まずは創業者兼経営者がいて、その創業者兼経営者が人を雇い入れて、事務や経理、営業や販売を部下に任せていきます。

ヴェンチャーやスモールスタートにおいて、創業期には、創業者兼経営者が組織運営にまつわるすべての業務を一人でこなしていると仮定します・・・。

すると、初めにいた創業者兼経営者の持っていた職業的な権限が、部下達に委譲されていって、会社組織が大きくなっていき、その組織は多くの部署や部門を内に抱えるようになっていきます。

※これは、単細胞生物が多細胞生物へと進化していく過程に似ていますね。

つまりは、「集合や組織」というのは、初めには、機能的かつ属性的に未分化な状態があって、これが時間の経過に従って、徐々に機能的・属性的に細分化されていき、単一の存在だったものが、いつの間にか、複合的な存在へと変わっていくということです。

この現象は、コンピューター分野のオブジェクト指向においては、トップレヴェルの「Object型」から様々なクラス型が派生していく過程や、トップダウン的にシステムやアプリケーションを開発していく過程に似ていますよね?。

※「ウォーターフォール開発」のことです。

最後に、したがって、「集合や組織(の基)」とは、(宗教学においては、)「唯一神」のことであったり、(経営学においては、)「創業者兼経営者」のことであったり、(情報学においては、)「Object型」または「アプリケーションクラス」であったりする訳です。

※結局のところ、(あらゆる)「集合や組織」には、①機能的かつ属性的に未分化な状態があること、②すべての部位や部分を統率または統括する高次の存在があることが挙げられます。

エクスキューズの本当の意味(非難あるいは差別や否定の手法)

初めに、今回は、「エクスキューズの本当の意味(非難あるいは差別や否定の手法)」について述べていきたいと思います。

ここで、巷ではよく、「あなたのことではないけれど・・・」とか、「あなたを差別したり 否定するつもりはないけれど・・・」などと一言目に断りを置いた上で、相手のことについて言及する人がいるようです。

しかし、このことを論理的に分析すれば、前段に断りを置き、後段に相手についての言及を置いていることから、つまるところ、その人にとっては後段の内容こそが真に言いたいことであり、そちらが本意となるはずです。

※文章的には、「前段に当たる部分が導入」だとすれば、「後段に当たる部分が本題」だということですね。

したがって、こういった断りを置く人というのは、結局のところ、相手を非難したり、相手を差別あるいは否定したいという欲求に突き動かされているのですね。

よしんば、(真っ向から)相手のことを差別したり、否定するつもりがないのだとすれば、この手の人にとっては、相手のことを積極的に肯定するつもりもないということになりますが、それならば、その相手に対して、(明確に)否定や肯定もしないと伝えるべきなのではないでしょうか?。

※つまりは、否定と肯定の中間的な位置付けとして相手を評価するということです。

※これならば、論理的に破綻しません。

※まず先だって、「あなたのことを 積極的に否定や肯定もしない」と言って置くか、あるいは相手のことには言及せずに初めから沈黙を貫いたほうがよい訳です。

最後に、言葉というのは道具であると同時に人の心を映す鏡でもあるので、くれぐれも言葉の使い方や、もっと言えば、エクスキューズの仕方を間違えると、相手には不快感を与えたり、相手をいたずらに不愉快にしたりと、言葉の弊害が出てくるので、十分に注意をするべきでしょうね・・・(笑)。

※筆者個人が過去に接した人の中では、「あなた以外には こういう人がいる」とか、もっとあからさまな表現・言い方だと、「あなたにとても近い存在の人がいる」などと、明らかに、私個人のことを見ずに、私と私以外の人を同列に見たり、同じグループに属しているかのように言われたこともありましたが、これには強烈な悪意を感じました。

可能性の選択(理解を超えた選択が不可能な訳)

初めに、今回は、「可能性の選択(理解を超えた選択が不可能な訳)」について述べていきたいと思います。

ここで、ある子どもが親から朝食を自分でつくるように言われました。

その子どもには、朝食の材料としてタマゴが与えられました。

タマゴがあれば、スクランブルエッグを作ることもできます。

しかし、その子どもは、目玉焼きの作り方しか知りません。

つまりは、その子どもにとっては、タマゴから目玉焼きを作ることしかできないので、スクランブルエッグを作る可能性は初めからないわけですね。

したがって、人間の意識の遡上に選択の可能性がない場合には、「(そもそも)選択するということ自体が不可能」な訳です。

※当人が、「偶然にスクランブルエッグを作ってしまった」ということも考えられますが、その場合には、(明瞭な)意識に基づく(明確な)選択として認められないゆえに、選択ではないとします。

※「理解を超えた選択が不可能」という言葉は、映画『マトリックス』の中で出てきます。

※また、作中での意味合いとしては、「その選択によってもたらされる結果について、それを(どの程度)認識できているかどうか」ということについて問われていると思います。

最後に、「理解を超えた選択」とは、①「意識の働きによって認識される可能性の選択」と、②「選択によってもたらされる結果についての認識」のことでした。

※①があって、次に、②があるという順序・流れです。