マイナス×マイナス=プラス(負数同士を掛け合わせると正数になる不思議)

初めに、今回は、「マイナス×マイナス=プラス(負数同士を掛け合わせると正数になる不思議)」について述べていきたいと思います。

これは、日本では中学校で初めて習う内容ですが、学校での説明にいまいちピンと来ない方のために書いておきました。

 

ここで、簡単な代数操作によって、このことを証明していきたいと思います。

 

1.  先ず「0=0」と置きます。

 

2.  次に「0=(a-a)」とします。

 

3.  次に「0=(a-a)*(-b)」とします。

 

4.  次に「0={(a)*(-b)}+{(-a)*(-b)}」とします。

 

5.  そして「{(a)*(-b)}」を左辺に移項して「ab={(-a)*(-b)}」とします。

 

※「{(1)*(1)}={(-1)*(-1)}」とも書けますね・・・。

 

以上で完了です。

 

最後に、このたった5ステップで「マイナス×マイナス=プラス」となることを証明できました・・・。

※巷では、このことについて、(なんでか)虚数をつかって説明する例もあるようですが、こんな簡単な式変形・式展開でわかってしまうものなのですね・・・(笑)。

虚数時間(実数時間以前の時間)

初めに、今回は、「虚数時間(実数時間以前の時間)」について述べていきたいと思います。

ここで、「虚数時間」とは、我々人間が日々体感している時間が「実数時間」だとすると、その反対の虚数の時間(=座標系上では、実数時間の軸と直交する軸上の時間)を指します。

※数学的にいうと、(大雑把ですが、)「複素数平面」の内、虚数に当たる部分です。

※ちなみに、これは、イギリスのホーキング博士が唱えたものです。

しかし、この世界や宇宙の誕生時において、実数の時間以前に虚数の時間があったと仮定しても、これをもって、世界や宇宙の誕生の謎に迫ることはできません。

なぜならば、この世界や宇宙の初めに虚数時間があったとしても、その「虚数時間以前の時間」の在り方・在り様については定義できていないからですね。

※「虚数時間以前の時間」がなかったとしてもです・・・。

最後に、(本質的には、)この世界や宇宙の誕生の謎に迫る際に重要なのは、「(世界・宇宙誕生時の)時間が、実数か虚数かを問う」よりも、「(そもそもの)時間の定義を明らかにした上で、時間とはなにから生じたのかを問う」べきではないでしょうか・・・。

ホーキング博士の主張によると、「虚数時間が、ある時、実数時間に変化・転化した」とのことです。

※ついでに、虚数時間を導入することによって、インフレーション時のシミュレーションを(ある程度、)(ある部分までは、)達成・実現できたとしても、「この世界や宇宙には最小の大きさ(=空間の容積)がある」と仮定しないかぎり、「特異点」の解消はできないでしょうね・・・。

権威・権力主義の悪弊(「集団病」あるいは「カリスマ病」)

初めに、今回は、「権威・権力主義の悪弊(「集団病」あるいは「カリスマ病」)」について述べていきたいと思います。

ここで、権威・権力主義が一旦社会にはびこると、例のごとく、権威・権力主義者やエスタブリッシュメントの手によって、その下に付いて生活している人々のあらゆるアイデアや知的な財産が吸い上げられてしまいます。

その結果、いつまでも、社会の一般層の人々の生活や暮らしは良くなることはなく、むしろ、彼ら権威・権力主義者やエスタブリッシュメントの私腹をますます肥やす結果となってしまいます。

彼らの手にかかれば、特定の個人や(比較的小規模な)組織や団体の挙げた成果や実績は、いつのまにやら、彼らのものになってしまうのです。

※具体的にいえば、個人の発明や権利を不当な価格で買い叩いたり、盗んだりすることです。

※大手企業がよくやるM&A、具体的にいえば、ヴェンチャーやスタートアップ企業などの買収戦略など。

※長期的に見れば、大手企業などが、ヴェンチャーやスタートアップのマネや模倣をして、後発の製品やサービスをリリースしてしまうと、どうしても、小さな会社は資金的に(知名度でも)太刀打ちできないので、必然的に大手企業からの買収戦略のカモにされてしまうのですね・・・。

この国の社会では、大手企業やエスタブリッシュメントなどの既得権益層が幅を利かせているので、社会的な成果や実績という美味しい部分は、すべて彼らが吸い上げて、反対に、都合の悪い部分はすべて下々の者に押し付けるという構造や弊害がつきまといます。

※大手企業が倒産の危機に直面すると、国や銀行が救済してくれるので、この国の企業はどうしても危機感や危機意識が弱いように思えますし、そのせいか、どことなく「殿様商売」をやっているようにも見えるのでしょうね・・・。

※企業や産業の新陳代謝がされにくいというのも、この国の特徴かもしれません。

※既得権を握っている人達や既存の産業(=特には、「製造業」や「建設業」)を守るための規制や、手厚い保護のための政策があり、この国のイノヴェイションを妨げている・・・。

※第一に、この国では、未来の社会を担う子供や若者達よりも、高齢者の考えや価値観が重んじられているし、有権者の絶対数でいっても高齢者のほうがかなり多いので、どうしても構造的に社会全体の代謝や生れ変わりが起こりにくいですしね・・・。

最後に、権威・権力主義が社会にはびこると、ほんとうに報われるべき人が報われず、逆に、権威や権力をやたらめったらと振りかざす人や組織の独壇場となり、あらゆる社会的な成果や実績は、この人や組織のものとなってしまうでしょうね。

※これは、もはや、大企業第一の「集団病」、あるいは、強烈な「カリスマ病」といってしまったほうがいいのかも・・・(笑)。

※ここでいう、「カリスマ」とは、マックス・ヴェーバーのいうところに近い、(超常的な)「人気」や、信奉者を集めやすい「ウケの良さ」といった意味合い程度のものです。

リベットの実験と自由意志の問題(人間に、自由な意志はあるのか?)

初めに、今回は、「リベットの実験と自由意志の問題(人間に、自由な意志はあるのか?)」について述べていきたいと思います。

ここで、1983年のベンジャミン・リベットの実験によると、人間には自由意志がないとする結果となり、これが今日の科学の主流の学説となっているそうです。

この実験は、被験者の体に電気信号を読み取る装置をつけて、被験者の判断で好きな時に腕を動かしてもらうというものです。

実験によると、被験者が腕を動かそうとする直前に被験者の脳内に準備電位が発生しているとのことです。

この実験の結果、リベットは人間には自由意志がないと結論付けたのです。

しかし、この実験には決定的な盲点があります。

それは、人間は、肉体の存在以前に「霊魂の存在」だと仮定すると、実験によって証明できたのは、脳に宿る意識が脳の活動によって生じているという事実だけになります。

さらにいえば、人間の意識のみならず、この世界や宇宙のすべては、神なるものの意志によって決められていると仮定すると、今日の量子力学をも否定することになってしまいます。

量子力学は、パソコン・スマートフォン等の開発にも応用されている理論です。

なぜなら、量子力学においては、物事は偶発的で確率的にしか決定できないからですね。

原子核の周囲を回っている電子の軌道は観測するまでは決定不能となっています。

すなわち、この世界のすべてが過去から未来にわたるまで、既に決まっているとする「決定論」には無理があるということです。

ただし、リベットの実験結果や決定論を完全に否定する論拠もないです。

最後に、ではなにが本当に正しいのかといえば、この世界や宇宙においては、すべてが必然か、あるいは偶然かの単色に塗りつぶせるほど単純ではなく、必然と偶然が相半ばしているというのが最も現実に即した認識・考え方となるでしょうね。

※またしても、「二項対立」「二項両立(=二律背反)」が顔を見せてきますね(笑)。

存在の定義②(神の存在とは)

初めに、今回は、「存在の定義②(神の存在とは)」について述べていきたいと思います。

ここで、すべての存在は、1「無為・自然的な存在(=非道具的な存在)」と、2「有為・反自然的な存在(=道具的な存在)」に分けられるのでした。

ここで、前者1には、その存在の理由や目的がないことから、前者1が後者2に対して優位であり、前者1が後者2を生み出した、あるいは造り出したことはお分かりになるかと思います。

※その存在に理由や目的があるのならば、他者の存在に使役・服従することになってしまうので、必然的に、1が2に先んじていることになります。

※なぜならば、存在の理由や目的とは、1によってもたらされるものだからです。

したがって、(原理的にいって、)その存在が、自らの存在の理由や目的を定めることはできないのですね。

※あくまでも、(自らの存在の)理由や目的は「発見したり、再認識する」ことしかできないということになります。

では、「神」は、完全な前者1なのかというと、神には意志(=なんらかの目的を達成せんとする意識の働き)があり、この世界や宇宙の「推進者」でもあるので、完全な1とはなりえません。では、神は完全な後者2なのかというと、これも正しくありません。

では一体なにが正しいのかといえば、やはり、ここにも「二項対立」や「二項両立(=二律背反)」が顔を出してきます。

というのも、当の神自身も、前者1と後者2の顔の両方を持ち合わせているからです。

最後に、神は、ある時は、この世界や宇宙の「支配者(=前者1)」であり、別のときは、この世界や宇宙の「推進者(=後者2)」でもあるのですから・・・。

存在の定義①(人それぞれの生き方)

初めに、今回は、「存在の定義(人それぞれの生き方)」について述べていきたいと思います。

ここで、すべての存在は、(究極的には、)「無為・自然的な(=理由や目的を伴わない)存在」と、「有為・反自然的な(=理由や目的を伴う)存在」に分かれます。

前者は、誰にも使役・服従していない「道具的でない」存在です。後者は、誰かに使役・服従している「道具的である」存在です。

すなわち、その存在に「理由や目的がある」ということは、同時に「道具的である」ということができますね。

理由や目的とは、何かしらの内的・外的動因(=契機や動機のようなもの)があって、そこから願望や欲求が発生している、このことには同意していただけるかと思います。

これは、たとえば、子供のころに大病にかかった自分を治療してくれた医者に憧れて、医療の道を目指すようになったなど・・・。

次に、その願望・欲求が私的・個人的なものか、はたまた公的・社会的なものかどうかに分かれて、より後者に近いもの(=社会的に承認し得るもの)に限って、理由や目的として定められるということになるでしょう。

※ただ単に、「将来、ラクがしたいからお金をたくさん稼ぎたい」とか、「たくさんの異性にモテたい」とかは、あくまでも、個人的な願望や欲求の域を脱しませんからね(笑)。

これは、先の例でいえば、将来、医者になって、自分が病気から救ってもらったお礼や恩義のために、「医者になって同じように病気の人を救いたい」などの願望や欲求のことですね・・・。

最後に、今の時代(そしてこれからの時代)には、どちらかといえば、前者の生き方が(強く)推奨されているような気がします・・・。

※「ワークライフバランス」でいえば、「働く」よりは「遊ぶ」とかのほうのウェイトが大きくなっているような・・・(笑)。

二項対立の原理②(「実」と「念」の切り分け)

初めに、今回は、「二項対立の原理②(「実」と「念」の切り分け)」について述べていきたいと思います。

ここで、たとえば、「明るい」と「暗い」の対比・対立的な関係について解説します。

これを実体(もしくは実態的)にいえば、「明るい」とは、"空間中の光が多い状態"となり、反対に、「暗い」とは、"空間中の光が少ない状態"となります。

これを概念(もしくは観念的)にいえば、「明るい」とは、"空間中に光のある状態"となり、反対に、「暗い」とは、"空間中に光のない状態"となります。

すると、前者の関係は「比較相対的」であり、後者の関係は「比較絶対的」であるということになりますね。

つまりは、二項対立には、「実」と「念」の二重の意味合いがあるということです。

もっと分かりやすくいえば、現実の世の中には、絶対的な男性や女性の存在(=生身の人間)はいませんが、想像や創作の中であれば、絶対的な男性や女性の存在(=偶像や性別像)というものを作ることができます。

つまりは、一つの二項対立であっても、二つの意味合いが重ねっているので、これについては、よくよく精査・吟味しないといけませんね。

最後に、まとめると、「実体・実態的」とは、物事の判断を「多寡」により測るということで、「概念・観念的」とは、物事の判断を「有無」により測るということです。

※我々人間の生きる現実・物質世界は、実に曖昧模糊としていて、その世界の中では、物事の判断に、二つ以上の判断材料を比較していたり、その「差異」を利用しているということが多いといえますね。

※上に対して、想像や創作の世界では、「絶対的な価値基準」や「物事の理想像」のようなものがあって、それに照らし合わせることで、物事を判断しているといえますね。

※「絶対的な価値基準」とは、すべての物事を"(明瞭・明確な)数値に置き換える"ということにつながります。

※前者が「文系的」だとすると、後者は「理系的」だともいえます。

※座標系で考えると、前者は境界値を含めず、後者は境界値を含めることとなります。

※その場限りの抒情・感情的(=パトス)な表現に徹しているのが「文系」ですが、すべての物事に法則性や再現性を求める理知的(=ロゴス)な営みをした結果、「物事の道理や真理」に到達するのが「理系」なのでしょう・・・。