リベットの実験と自由意志の問題(人間に、自由な意志はあるのか?)

初めに、今回は、「リベットの実験と自由意志の問題(人間に、自由な意志はあるのか?)」について述べていきたいと思います。

ここで、1983年のベンジャミン・リベットの実験によると、人間には自由意志がないとする結果となり、これが今日の科学の主流の学説となっているそうです。

この実験は、被験者の体に電気信号を読み取る装置をつけて、被験者の判断で好きな時に腕を動かしてもらうというものです。

実験によると、被験者が腕を動かそうとする直前に被験者の脳内に準備電位が発生しているとのことです。

この実験の結果、リベットは人間には自由意志がないと結論付けたのです。

しかし、この実験には決定的な盲点があります。

それは、人間は、肉体の存在以前に「霊魂の存在」だと仮定すると、実験によって証明できたのは、脳に宿る意識が脳の活動によって生じているという事実だけになります。

さらにいえば、人間の意識のみならず、この世界や宇宙のすべては、神なるものの意志によって決められていると仮定すると、今日の量子力学をも否定することになってしまいます。

量子力学は、パソコン・スマートフォン等の開発にも応用されている理論です。

なぜなら、量子力学においては、物事は偶発的で確率的にしか決定できないからですね。

原子核の周囲を回っている電子の軌道は観測するまでは決定不能となっています。

すなわち、この世界のすべてが過去から未来にわたるまで、既に決まっているとする「決定論」には無理があるということです。

ただし、リベットの実験結果や決定論を完全に否定する論拠もないです。

最後に、ではなにが本当に正しいのかといえば、この世界や宇宙においては、すべてが必然か、あるいは偶然かの単色に塗りつぶせるほど単純ではなく、必然と偶然が相半ばしているというのが最も現実に即した認識・考え方となるでしょうね。

※またしても、「二項対立」「二項両立(=二律背反)」が顔を見せてきますね(笑)。

存在の定義②(神の存在とは)

初めに、今回は、「存在の定義②(神の存在とは)」について述べていきたいと思います。

ここで、すべての存在は、1「無為・自然的な存在(=非道具的な存在)」と、2「有為・反自然的な存在(=道具的な存在)」に分けられるのでした。

ここで、前者1には、その存在の理由や目的がないことから、前者1が後者2に対して優位であり、前者1が後者2を生み出した、あるいは造り出したことはお分かりになるかと思います。

※その存在に理由や目的があるのならば、他者の存在に使役・服従することになってしまうので、必然的に、1が2に先んじていることになります。

※なぜならば、存在の理由や目的とは、1によってもたらされるものだからです。

したがって、(原理的にいって、)その存在が、自らの存在の理由や目的を定めることはできないのですね。

※あくまでも、(自らの存在の)理由や目的は「発見したり、再認識する」ことしかできないということになります。

では、「神」は、完全な前者1なのかというと、神には意志(=なんらかの目的を達成せんとする意識の働き)があり、この世界や宇宙の「推進者」でもあるので、完全な1とはなりえません。では、神は完全な後者2なのかというと、これも正しくありません。

では一体なにが正しいのかといえば、やはり、ここにも「二項対立」や「二項両立(=二律背反)」が顔を出してきます。

というのも、当の神自身も、前者1と後者2の顔の両方を持ち合わせているからです。

最後に、神は、ある時は、この世界や宇宙の「支配者(=前者1)」であり、別のときは、この世界や宇宙の「推進者(=後者2)」でもあるのですから・・・。

存在の定義①(人それぞれの生き方)

初めに、今回は、「存在の定義(人それぞれの生き方)」について述べていきたいと思います。

ここで、すべての存在は、(究極的には、)「無為・自然的な(=理由や目的を伴わない)存在」と、「有為・反自然的な(=理由や目的を伴う)存在」に分かれます。

前者は、誰にも使役・服従していない「道具的でない」存在です。後者は、誰かに使役・服従している「道具的である」存在です。

すなわち、その存在に「理由や目的がある」ということは、同時に「道具的である」ということができますね。

理由や目的とは、何かしらの内的・外的動因(=契機や動機のようなもの)があって、そこから願望や欲求が発生している、このことには同意していただけるかと思います。

これは、たとえば、子供のころに大病にかかった自分を治療してくれた医者に憧れて、医療の道を目指すようになったなど・・・。

次に、その願望・欲求が私的・個人的なものか、はたまた公的・社会的なものかどうかに分かれて、より後者に近いもの(=社会的に承認し得るもの)に限って、理由や目的として定められるということになるでしょう。

※ただ単に、「将来、ラクがしたいからお金をたくさん稼ぎたい」とか、「たくさんの異性にモテたい」とかは、あくまでも、個人的な願望や欲求の域を脱しませんからね(笑)。

これは、先の例でいえば、将来、医者になって、自分が病気から救ってもらったお礼や恩義のために、「医者になって同じように病気の人を救いたい」などの願望や欲求のことですね・・・。

最後に、今の時代(そしてこれからの時代)には、どちらかといえば、前者の生き方が(強く)推奨されているような気がします・・・。

※「ワークライフバランス」でいえば、「働く」よりは「遊ぶ」とかのほうのウェイトが大きくなっているような・・・(笑)。

二項対立の原理②(「実」と「念」の切り分け)

初めに、今回は、「二項対立の原理②(「実」と「念」の切り分け)」について述べていきたいと思います。

ここで、たとえば、「明るい」と「暗い」の対比・対立的な関係について解説します。

これを実体(もしくは実態的)にいえば、「明るい」とは、"空間中の光が多い状態"となり、反対に、「暗い」とは、"空間中の光が少ない状態"となります。

これを概念(もしくは観念的)にいえば、「明るい」とは、"空間中に光のある状態"となり、反対に、「暗い」とは、"空間中に光のない状態"となります。

すると、前者の関係は「比較相対的」であり、後者の関係は「比較絶対的」であるということになりますね。

つまりは、二項対立には、「実」と「念」の二重の意味合いがあるということです。

もっと分かりやすくいえば、現実の世の中には、絶対的な男性や女性の存在(=生身の人間)はいませんが、想像や創作の中であれば、絶対的な男性や女性の存在(=偶像や性別像)というものを作ることができます。

つまりは、一つの二項対立であっても、二つの意味合いが重ねっているので、これについては、よくよく精査・吟味しないといけませんね。

最後に、まとめると、「実体・実態的」とは、物事の判断を「多寡」により測るということで、「概念・観念的」とは、物事の判断を「有無」により測るということです。

※我々人間の生きる現実・物質世界は、実に曖昧模糊としていて、その世界の中では、物事の判断に、二つ以上の判断材料を比較していたり、その「差異」を利用しているということが多いといえますね。

※上に対して、想像や創作の世界では、「絶対的な価値基準」や「物事の理想像」のようなものがあって、それに照らし合わせることで、物事を判断しているといえますね。

※「絶対的な価値基準」とは、すべての物事を"(明瞭・明確な)数値に置き換える"ということにつながります。

※前者が「文系的」だとすると、後者は「理系的」だともいえます。

※座標系で考えると、前者は境界値を含めず、後者は境界値を含めることとなります。

※その場限りの抒情・感情的(=パトス)な表現に徹しているのが「文系」ですが、すべての物事に法則性や再現性を求める理知的(=ロゴス)な営みをした結果、「物事の道理や真理」に到達するのが「理系」なのでしょう・・・。

不合理と偶然性の正体③(量子力学の本質)

初めに、今回は、「不合理と偶然性の正体(量子力学の本質)」について述べていきたいと思います。

(現実における)物事の選択や決定については、どうしても不合理や偶然性がつきまとうということについては以前の記事で述べさせていただきました。

ここで、あらゆる物質の構成要素である原子に含まれる、原子核の周囲を絶えず運動している電子の状態は確率的にしか決定できません。

※これを、「量子状態」と呼びます。

なぜそうなっているのかというと、原子核の周囲を運動している電子の軌道の上のどの位置にも「順序」や「優劣」がないからです。

※重要なのは、電子が物理学的なエナジーを持っている以上、電子は絶えず運動せざるを得ないという事実であり、電子は周回軌道の上であれば、どの位置で発見されてもいいからですね。

したがって、電子の位置は確率的にしか決められないし、確率的にしか観測できないということです。

この問題は、本質的には「乱択」の問題と同義です。

リンゴの山から一つのリンゴを選ぶことは、突き詰めれば、どのリンゴを選んでも同じなのですから、当然にして、電子の発見される位置もどこでもいいということになりますね。

アインシュタインは、"神はサイコロを振らない"といったそうですが、現実には、(やはり、)神はサイコロを振っているようです。

最後に、「選択」と「決定」の問題には、必ずといっていいほど、不合理や偶然性がつきまとってくるということでした。

人生の困難な問題(自己起因と他者起因)

初めに、今回は、「人生の困難な問題(自己起因と他者起因)」について述べていきたいと思います。

ここで、(人生の)あらゆる問題には、必ずやその原因があります。

その原因とは、「自己起因」のものと「他者起因」のものがあります。

自己起因については、内省したり、内観することで、その原因を探り当てることができますね。

※原因がわかれば、あとはそれを取り除くだけです。

他者起因については、自分の周囲をよく観察・分析することで、その原因を探り当てることができますね。

あらゆる問題のうち、"「真の問題」とは、この他者起因によるもの"です。

他者は自己と違って、"数が多い上に、その一人一人を変えることは難しい"からです。

したがって、他者に積極的に働きかけて、他者を無理に変えようとするのではなく、そういった「他人に問題を押し付けるような人達」とは極力関わらないようにするのが賢明でしょうね。

最後に、自分をより良くしていく努力と、自分の人生に干渉したり、悪い影響をもたらす人達とは関係を断ち切るようにしていくのがよいと思います。

※世の中に多く見られるのは、"初めに、人に親切にしたり、優しくすることで、一旦、信頼を勝ち取っておいて、あとで、(自分を)信頼している相手を裏切ったり、利用するタイプの人達です。

※こういった人達は、大体がその人の醸し出している空気や雰囲気でわかります(笑)。

※くれぐれも、こういった人達に裏切られたり、利用されたりしないようにしましょう。

過去から未来までを見通すということ(課題と問題の構造)

初めに、今回は、「過去から未来までを見通す」について述べていきたいと思います。

ここで、巷ではよく聞く、「未来から現在を逆算する方法」、あるいは、「未来からあるべき現在を導き出す」という主張や言説があります。

これは、"なりたい自分をまず想像してみることから、現在の自分の在り様・在り方を見出そうとする"ことです。

しかし、この方法論には盲点や欠陥があります。

それは、"現在から未来までが地続きになっている"ということ以前に、"過去から現在までが地続きになっている"からです。

つまりは、未来にあるであろう結果は、過去にあったであろう第一の原因がもたらしているということですね。

※「因果律」とは、問題の内なる構造の一部です。

※「問題の構造」とは、"因果律と、原因と結果の間に起こる「現象」を併せたもの"です。

したがって、"未来の自分を想像し、そこに向かっていくには、まず過去の見直し・振返りが必要となる"わけです。

※「過去の見直し・振返り」とは、物事の認識を時系列に沿って、過去にまで及ぼすことです。簡単にいえば、「過去に遡る」ですね。

そうすることなしには、(少なくとも、)(自分の)人生における「(ある種の)法則」や「経験則」は導き出せないからです。

人生における法則や経験則が不明のままですと、現在から先の未来までをも見通すことなどは不可能です。

※これは、「課題」の発見と言い換えてもいいです。

※「課題」とは、まず現状があり、未来における理想の形や姿との齟齬やギャップをいかに埋めていくのか、あるいは、これを解消していくのかということです。簡単にいえば、「目標の設定」ですね。

最後に、"法則や経験則を駆使することで、未来の(なりたい)自分につながる行動や振る舞いが見い出せる"というお話でした。

※これは、行動・振舞い的な「材料出し」ですね。

※人が、自らの行動や振舞いを決める手前の段階には、"問題を課題に変える"、その転換が起こるということがあります。「課題がクリアになる」ともいいますよね?。