将来予測(その限界と可能性)

まず、この世界では、(基本的には、)我々人間が個々の自由意志に基づき、(この世界における)行動や振る舞いを決定しています。そのことにより、我々人間はこの世界を自分たちの都合のいい形(=より豊かで便利な形)に作り替えてきたと言えます。

※当然、人間社会は、個々人の間の同意ないし契約に基づいて形成されています。

この世界の成長ならびに発展は、我々の自由意志の賜物といってもいいでしょう。

※(人間は、)自分の手足を動かすことでさえも自由でない、という考え・主張もあるそうです。しかし、我々人間には手足を動かす自由も、好きに行動する自由もあります。

※'予定・運命説'については、わたしは完全には否定しません。しかし、我々人間は、日常生活の中での自由を日々体感・実感していますよね?。

ここで、将来予測とは、個々人の自由意志(≒人間の内面的な動き)を読み取り、(予測を行う)その個人(や組織)が不特定多数の他者の行動や振る舞いをあらかじめ予見してしまうということです。また、自然的な世界の変化をも予見することにもなり、(もっといえば、)この宇宙の変化さえも予見してしまうということにもなります。

※"予見できる"ということは、物事の行く末が決まっているということになります。

個々人の自由意志は、(当然にして、)その個人の自由な意志であるので、(その個人の人生・生活に係ることであれば、)何事もその個人の自由な意志に基づいて決定されなければなりません。

※すでに"予見されている意志"は、自由な意志とはいえないということです。また"他者に縛られている"といってもいいでしょう。

したがって、(その予測が精密であればあるほど、)個々人の自由意志に基づく行動や振る舞いを限定してしまう(あるいは自由を奪ってしまう)ということです。

※予測対象が、この世界や宇宙ともなれば、(我々人間ごときが、)神の意志をも予見ひいてはコントロールすることにもなりかねません。

つまるところ、(精密な)将来予測は、原理的には不可能だということです。

※欧米では、'バウンダリー'という考え・主張もあり、これに基づけば、他者の行動や振る舞いを予見できるということは、他者への権利侵害と人格侵犯にあたり、(当然にして、)他者の行動や振る舞いを(事前に)阻止・妨害することも可能となってしまいます。

ただし、将来を(ある程度)予測することは不可能ではありません。これも我々人間の自由意志に基づいているからです。ある個人(や組織)が不特定多数の他者の権利ないし権益を(不当に)損なわない程度・範囲でなら許されるということです。さらに、我々人間が、"神の意志に反しない(あるいは許容を超えない)程度"にならということにもなりましょう・・・。

精神的な現象(意識、その発露)

初めに、(今回は、)以前上げた記事『意識の仕組みと構造』では述べられなかった、あるいは、これと関連のありそうな内容について述べていきたいと思います。

ここで、意識の構成要素である"①自我・②自己・③性格・④人格"について述べていきたいと思います。

①'自我'とは、衝動や欲求と、(意志において規定される)規則や規範の間で揺れ動く、あるいはこれらの間で調停される(自分自身の)心です。または、(自分自身が思う)自分自身の在り様ないし在り方のことです。'アイデンティティー'とも呼ばれます。さらに自我は、魂と心で構成されています。

②'自己'とは、自分自身が他者(=もっと広く言えば'社会全体')との関わりにおいて、他者との関係に基づいて導かれる、(あるいは見いだされる)自分自身の在り様ないし在り方のことです。または、他人から見た自分。「あなたって こうだよね?」という他者の思い込み、あるいは他者による評価(みたいなもの)。'パーソナリティー'とも呼ばれます。さらに自己は現実社会における(意識の内にある)自我の投影でもあります。

③'性格'とは、(その人が生まれ持った気質から生じる、)行動あるいは感情の傾向。(他者から観た)その人の(本来的な意味での)行動的ないし感情的な性質や振る舞い。その人の持つ先天的な人間的要素。

④'人格'とは、広義の性格。(性格をも含めた)その人の(極めて社会的な)行動あるいは感情の傾向。または、社会的に訓練あるいは鍛錬された度合い。人間的水準の高さ。その人の持つ後天的な人間的要素。

まとめると、①は、人間の意識の奥に潜んでいる、意識に深く立ち入ったものです。②は、①の社会的な投影あるいは社会的な像。

③と④は、人間の意識の外側に近い、より社会的な意識の側面と言えます。

※①と②の間では調停が図られます。つまりは、"自分の思う自分と、他人から見た自分との間の齟齬やアンバランスを解消する"、ということです。

※(③と④の関係について言えば、)③が確立されてから、次いで④が確立されます。

光速度不変の原理

初めに、今回は'光速度不変の原理'について述べていきたいと思います。

※解説のために、(ある種の)科学的な思考実験をしていきます。

ここに、宇宙の空間を移動するロケットがあるとします。このロケットの移動の開始とともにロケットと並行する格好で、(光を発射するなんらかの装置から)光が出るとします。

ここで、アインシュタインの考え・主張によれば、ロケットがどんなに高速で移動しても、ロケットから観測される光(=ロケットと並行して移動する光)の速度は相変わらず秒速30万キロメートルです。

これはなぜでしょうか?。それは、ロケットが速く移動すればするほど、(ロケットの移動速度に対して、)ロケットの移動距離が短くなるからです。

※この時、ロケット自身は、(ロケットの外側から観測すると)縮んで見えます。ちなみに、ロケットが速く動くほど、ロケットの潰れ具合が大きくなって見えます。これを'ローレンツ収縮'といいます。

(光速度不変の原理に従えば、)どのような慣性系にいる観測者であっても、(光源の移動速度にも関係なく、)常に観測される光の速度は変わらないのです。

ゆえに、この"つじつまを合わせる"ために、(この宇宙は、)ロケットの移動速度をそのままにしておいて、ロケットの移動距離のほうを短くしているのです。

つまりは、ロケットの周囲で流れる時間を引き延ばす(=遅らせる)というトリックが駆使されるのです。

※本来ならば、ロケットの移動速度が、そのままロケットの移動距離となりますが、ロケットから観測される光は常に一定(=秒速30万キロメートル)でなければならないので、(光のほうの都合に合わせて、)ロケットの移動距離を抑えるために、(ロケットの周囲で流れる)時間を引き延ばしている(=遅らせている)のです。

※(もともとの)ロケットの移動時間を引き延ばすことで、引き延ばした時間の長さに応じて、"(もともとの)ロケットの移動速度を(微小な大きさになるように)分割している"、ということです。これが(そのまま)ロケットの(次の瞬間の)'移動距離'となります。

終わりに、(あくまでも理論的に言えば、)(物体の)加速のもととなるエネルギーが、移動する物体の質量に転化することで、(高速で移動する)物体の質量が増大して、"その物体は動きにくくなる"、さらにいえば、"その物体を取り巻く時空(そのもの)が歪む"、というのが正しいです。

なぜ、宇宙は膨張し続けるのか?

初めに、今回は、「なぜ、宇宙は膨張し続けるのか?」について述べていきたいと思います。

ここで、ビッグバン以来、光は秒速30万キロメートルで宇宙の端に向かって移動し続けました。

宇宙は光の移動を止める訳にはいかなかったので、宇宙それ自身を膨張させることで、これに対処しました。

※これは私の仮説です。

現実に、この宇宙は光と同じ速度である秒速30万キロメートルか、それ以上の速度で膨張しているそうですが、これは明らかに、「宇宙の端に向かう光」に対処するためと考えられます。

つまりは、この宇宙は、あらゆる物質やエナジーの振る舞いを達成ないし実現するための普遍的な場を求めた結果として、「(宇宙それ自身の)膨張を余儀なくなされた」ということです。

※ちなみに、この宇宙の膨張の仕方については、よく風船をつかって喩えられますが、これは正確ではありません。なぜならば、風船は「膜」なので、その上に描かれた点(=天体)も空間の拡大にしたがって大きくなってしまうからです。

また、この宇宙に内在する銀河団ブラックホールから発生する引力に対抗するためにも膨張を続ける必要があります。

でないと、この宇宙は斥力が引力に負けて収縮してしまうからですね。

ところで、空間とは、位置の系列を表現するための形式であり、物体の配置(=物体間の隔たり)を保存するための仕組み・枠組みであるために、「無限」ということはありえません。なぜならば、(すべての)物体は、無限の(位置の)系列を経て移動することは適わないからです。

つまりは、空間が有限であるからこそ、物体は移動できるのです。

したがって、この宇宙の膨張に限界のあることは明白です。ただし、それが「いつなのか?」、「どこまでなのか?」は定かではありません。宇宙の空間は「無限大」なのですから・・・。

※「無限」≠「無限大」。くれぐれも誤解なきよう。

完全なる無

はじめに、この世界や宇宙の始まりは、"完全なる無"だったのでしょうか?。それとも既に何かがあったのでしょうか?。

先に結論を言ってしまえば、この世界や宇宙の始めには、世界・宇宙の仕組みないし枠組みがあり、それ以前には神がいました。

※このことについては、今回とは別の記事『神の実在証明』でも述べました。

※もしも、神と、世界・宇宙の仕組み・枠組みの存在を否定するのならば、(ライプニッツが提出した二つの問いである)①「なぜ、無でなくて有なのか?」=「なぜ、この世界や宇宙(ひいては我々人間)はある(いる)のか?」、②「なぜ、様々な有の中で、この有なのか?」=「なぜ、この世界や宇宙は、今ある様にして(この様に)あるのか?」といった問いには答えられません。

※したがって、"完全なる無"などという観念は、(厳密には)存立しえないことになります。

この世界や宇宙は無から生じた、(あるいは無が有に転じた)結果として、今この世界・宇宙があるということです。

ただし、完全なる無からは何も生じることはできないので、この世界や宇宙以前には神があった(いた)ということになります。

つまりは、神こそが、(全ての物事についての)第一の原因であり、究極の原因であるということです。

※では、"神は、どこから生じたのか?"といえば、この問いこそがナンセンスです。なぜならば、神の定義の内に、"(神自身を除く)全ての物事についての第一の原因であり、究極の原因"である、が含まれるからでしょう。それに、神はそもそも、はじめから完全・完璧な存在なので、生成・化育(あるいは誕生・成長)というプロセスを経ないのです。

ではなぜ、"神があった(いた)のか?"という問いに対しては一定の解答が与えられると思います。それについては、『有と無(存在と非-存在)』でも述べましたが、常に高い次元から観れば、無に対して有のほうが優越するからでしょう。

つまりは、なぜ、全ての物事(=この世界や宇宙、はたまた自然や我々人間と言った森羅万象)は実在するのかといえば、それらが無であるよりも有であった方が(=ないよりもあったほうが、)極々自然なこと(あるいは、必然)だったからではないでしょうか・・・。

有と無(存在と非-存在)

はじめに、ベルクソンは、'無'とは有(=なんらかの存在のあること)の否定だと言いました。さらに、有とは、無になにかを足し合わせることでない、とも言っていますが、これは間違い・誤りです。

ベルクソンは、無とは、それ自身を直接に規定することはできず、無は"有の否定"でこそ得られるため、有よりも複雑な観念であるとも言っています。

ここで、'有(=なんらかの存在のあること)'とは、無の反対であり、無の否定です。つまり、無になにかを足し合わせることが有という観念となります。

逆に、無(=なんらの存在もないこと)とは、有の反対であり、有の否定です。つまり、有からなにかを差し引いていることが無という観念となります。

本来、二項対立上の二者は対等な関係であり、性質的ないし本質的には同じはずです。したがって、ベルクソンの言うとおり、有からなにかを差し引くこと、(あるいは消し去ること)が無だとするのなら、その逆も同様に言えるはずです。つまり、無になにかを足し合わせることが有だということです。

※二項対立については、今回とは別の記事『二項対立の原理』で述べました。

ここで、『二項対立の原理』でも述べましたが、二項対立の上に互いに対立し、相反する二者が「男性」と「女性」の場合、そのどちらもが'人間'にグルーピングされることは自明ですが、これは、一つの'存在状態'と観ることも可能です。

つまり、男性も女性も共に人間であるが、(現実への)その出現の仕方、あるいは性質ないし本質の現れ方(=存在状態)が異なるため、その性差があるということなのです。

この考え方をそのまま、先ほどまでの"有と無"に適用すれば、有と無は共に存在状態が異なりますが、共通の性質ないし本質を持ちます。

ここで、それらの観念よりも一個上の次元から、(それらの観念を)観ることで、我々人間は新たな境地ないし境涯に到達し、新たな観念を獲得できるのではないかと考えます。

それは、'超存在'とも呼ぶべき観念であり、これは、有(≒存在)と無(≒非-存在)の二つの存在状態を併せた、(あるいは統合した)観念です。

※これは、ヘーゲル弁証法をつかって導き出しました。

超存在とは、有(≒存在)と無(≒非-存在)の両方を同時に兼ね備えた観念であり、(ある時には、)有にも無にもなれます。つまり、超存在からすれば、有も無もそれ自身の存在状態の一つに過ぎないこととなるのです。

このことは、無とは、なにかがないことであり、なにかがない状態であるということともなり、これは超存在にとっては、自分自身の性質ないし本質を(いわば)隠した状態ということです。しかし、(確かに)"その存在はある"ということになります。

まとめると、二項対立上では、有と無は本来対等な関係ですが、一個上の次元から見ると、"有のほうが無に対して優越する"、ことともなります。

※仏教の一宗派である'華厳'には、"悪も善の内である"という考え方があります。また、(俗っぽい表現になりますが、)(世の中には、)"「イヤヨ イヤヨ」も好きの内"というのもあります(笑)。

ベルクソンは、有より(むしろ)無のほうが複雑な観念であると考え、これを主張しましたが、(以上のことから、)(わたしは)それは間違い・誤りだと考えます。(先述したとおり、)それは、無より(むしろ)有のほうが複雑な観念だからです。

※ひょっとすると、"なぜ何もないのでなくて、何かがあるのか?"、といった類の存在問題は、有が無に対して優越するということに起因・由来しているのではないでしょうか。これは、ライプニッツが提出した二つの問い、①「なぜ無でなくて有なのか?」、②「なぜ様々な有の中で、この有なのか?」の内の前者①に該当するものです。

意識の仕組みと構造①

初めに、'意識'とは、魂・心・意志・知能といったものによって構成されます。さらに知能は、理性・悟性・感性といったものによって構成されます。このことについては、今回とは別の記事『知性と野性』で述べました。読まれていない方には一読をお勧めします。

心とは、外部ないし外界からの刺激によって日々刻々と変化する部分であり、様々な気持ちや感情をもたらします。したがって、心とは実にフレキシブルなものなのです。

意志とは、心が定立するもの。心が意志を定めている(決めている)ということです。

※意志は、我々人間の日常における心遣い・行動や振る舞いを決定する上で、常に心から参照されている存在です。

したがって、心が弱っていると、自分の意志に忠実に物事を判断したり、行動することができなくなります。

※巷では、よく"意志が弱い"といわれますが、これも間違い・誤りです。"心が弱い"から、自分自身の(邪まな、あるいは浅ましい)欲求に負けるのです(笑)。

※"意志は強いか弱いか"でなく、"意志はあるかないか"、です。

さらに、心は、肉体から触発され、様々な(主には生理的な)欲求や衝動に突き動かされます。これは本能によるものと考えます。そして、本能とは肉体に宿っているものです。

※これは、'エス'と呼ばれます。

エスから生じた様々な(生理的な)欲求は'リビドー'と呼ばれます。

※欲求について言えば、食欲・性欲・排泄欲など。衝動について言えば、(悪い意味では)暴力・暴言など。

※ある時、子供が突然泣き出したり、叫んだりするのも衝動によるものだと考えます。

ここで、心は、(基本的には)快楽原理に従いますが、(あるいは縛られていますが、)これは、意志の存在によって克服できます。

※といって無理に食事や排泄をガマンするのは体によくありませんので、あしからず(笑)。

これは、自分自身の定めた(決めた)意志に従うことで、目先の欲求・衝動や利益、果ては快楽といったものに振り回されないように、自分自身を統制ないし抑制(=コントロール)することができるようになるのです。

これは、心が常に自分自身の(同じ)意識の内にある意志に照らし合わせて、その時々の心遣い・行動や振る舞いに間違い・誤りがないかを確かめることで、これを改めようとするのです。

ここで、ではなぜ我々人間には、肉体から発する欲求や衝動以外にも、より高度で高尚な(=ハイレベルな)欲求・衝動があるのでしょうか?。

わたしは、これには'魂'が関連していると見ています。つまり、魂こそが、人間を人間たらしめている高度で高尚な欲求や衝動をもたらしているのだと考えます。

たとえば、"政治家・慈善家・実業家になって世の中を変えたい"、"世の中の弱い立場に立たされている人々の救いや助けになりたい"、"画期的な発明やアイデアを形にして世の中を便利にしたい"、"人類史に残るような科学的・学術的発見をして人類全体に貢献したい"、などの欲求や衝動は、そのどれもが世の中を良くすることに通じますが、なぜ、このような(より)高度で高尚な欲求や衝動があるのかといえば、それは、ひとえに人々の精神の内にある魂がそうさせているのではないでしょうか。

※我々人間の意識の内に、魂がはじめから備わっていて、(あるいは宿っていて、)それが肉体の成長に合わせて、活性化ないし活発化して、これが、心に働きかけてきて、人間に(自分自身に固有の)意志を持つように促していると考えます。

※ちなみに、心理学や精神医学(特に分析心理学)の世界では、'魂'という言葉や表現は(どうやら)殆んど心と同一視されていますが、わたしはそうは考えません。"心は心、魂は魂"という考え方です。なぜなら、心は我々人間の努力によって変えられますが、魂までは変えられないからです。魂は努力云々で変えるものでなく、人それぞれが持って生まれたものであり、はじめから完全・完璧なものだからです。